野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫、2006年4月
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、私が好きな本のひとつである。私の人生に大きな影響を及ぼしたといっても過言ではない。というのも、哲学者の本ではじめて全部読み通したのが、この本なのだ。それゆえに思い入れが強い一冊である。もちろん、私には哲学の教養がないので、何度読んでも『論考』に何が書かれているのか理解できない。今も昔も、ただひたすら文字を見つめているだけで、何が何やら分からない。だけど、そこがいい。何度読んでも理解できない/できそうもないところに『論考』の魅力があるといえよう。
野矢氏は、ウィトゲンシュタインが『論考』で切り捨ててしまった「意味の他者」という「謎」に注目する。野矢氏にとって、「意味の他者」あるいは「謎」は重要で、それは私の論理空間に変化をもたらすからだ。そういう意味で、『論考』もまた野矢氏にとって「謎」であり「意味の他者」である。「いまは理解できないが、いつか理解できるようになる、その希望を私が持ち続けるかぎり、『論考』は私にとって他者であり続ける」(p.317)。私にとって、いつまでも『論考』が色褪せないのは、こういう意味での「他者」であるからだと思う。
若きウィトゲンシュタインは、『論考』をもって哲学の問題が解決されたといい、しかも「本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる」と言い放った。(その後、ウィトゲンシュタインの思索は転換することになるのだが。)こんな大胆な言葉を一目見て、心が揺るがされないのはうそだ。誰だって、ウィトゲンシュタインの言葉に挑戦したくなるはずである。本書のはじめに、野矢氏は「『論考』はまちがっている」(p.16)と断言する。だが、全部がまちがっているわけではない。野矢氏は、「『論考』の構図は基本的に正しい」(p.17)という考えだ。『論考』から正しい部分を取りだし議論を補完して、『私の論理哲学論考』を出したいぐらいだと述べる野矢氏も、ウィトゲンシュタインと同様に感動的だと思う。
そういうわけで本書は、野矢氏による『論理哲学論考』の読解であるが、著者自身「『論理哲学論考』を理解したいと思うならば、この本を読むのが現時点では最短の道であると言いたい」(p.14)と述べているように、『論考』を理解するのにかなり役に立つ本だ。ウィトゲンシュタインに関する本を何冊か読んだことがあるが、現時点では本書が一番読みやすい。本書を脇に置いて、もう一度『論理哲学論考』を読み直したい。