ロバート キャンベル編『読むことの力』

◆ロバート キャンベル編『読むことの力』講談社、2004年3月
「読む」というテーマで12の講義が行われ、最後に「詩を読むよろこび」という鼎談が収められている。哲学から歴史や芸術そして文学まで、幅広い分野から「読む」ことが考察されていく。「読む」という一つのテーマでも、多様なアプローチがあるものだ。
ヨーロッパの中世に書かれた「遺言」が、やがて訪れる「読む」文化の到来を準備するものであったことを指摘する甚野尚志氏。翻訳者は、「作者代理」なのか「読者代表」なのかという問題をあらためて考察する柴田元幸氏。『古事記』を「読む」本居宣長について分析し、宣長にとって『古事記』を読むことの意味は何だったのかを問う神野志隆光氏。「パリ写真」を題材に、「写真集」は「読む」ものであることを提示した今橋映子氏。このあたりが、特に印象に残った。
一つ気になるのが野矢茂樹氏の「<意味の他者>と読む」というもの。ここで、野矢氏は相対主義を擁護しようとする。その際、批判の相手になるのはデイヴィドソンで、野矢氏はデイヴィドソンの「概念相対主義者の言う「異なった概念体系」なんてものはありえようはずはないという批判」(p.99)を再検討する。野矢氏もデイヴィドソンの「異なった概念体系などありえない」という論には、説得力があることを認めつつも批判を加える。野矢氏が言うには、デイヴィドソンのように考えると「自分のことばに翻訳して理解するしかありえない」(p.103)ことになってしまう。「だけど、それって、すごくつまらないことなんじゃないだろうか」(p.103)とデイヴィドソンの考えを批判する。野矢氏の考えは、次のようなものだ。

手持ちの概念体系では理解できない、だからこそ、自分を変えようとしていく。自分を変えることによってしか、それは理解できないからだ。この、自分を変えるという可能性を、デイヴィドソンの議論はまるごと無視している。(p.103)

難しいのは、理解不可能なものを前にして「自分をどう変えればよいのか」ということだという。自分の手持ちの概念体系を逸脱している<意味の他者>に対して、自分を変えていくという考えはなるほどなあと思う一方で、それはいささかきれい事なのではないかという疑問も浮かぶ。他者を自分の言葉に変えてしまうのは「×」で、自分を他者に合わせて変えるのはなぜ「○」なのだろう?。というか、その前に、そもそも「自分が変わる」ということは、どういう事態を示すのだろう?。
<意味の他者>というものがあって、それが理解できるようになったとする。この場合、はたして「自分が変わった」のか、それとも<意味の他者>を「自分の言葉に翻訳してしまった」のか。この区別をつける方法がいまいち分からない。自分が変わったのか、他者が変わったのか――。
野矢氏は、授業に出ていた学生が「自分が変わるというけど、自分の概念体系が変化したとき、もとの概念体系がどうなるんでしょう。消えちゃうのか、新たな概念体系に吸収されるのか」という質問をしたと書いている(p.104)。この質問は、もっともだと思う。やっぱりデイヴィドソンの批判は揺るがないのではないか。「過去の自分をいまの自分と異なる概念体系をもっていたと、どうして分かるのか。そして先と同じ議論が繰り返される。過去の自分をいまの自分の概念体系のうちに翻訳できるのならば、そこには異なった概念体系などありはしない。そしてもし、過去の自分のことばがいまの自分のことばに翻訳できないものであるならば、それはもう言語と呼べるようなものではない。」(p.105)
それでも、野矢氏は自説を維持する。

 きっと、子どもの頃の自分は、あるいは大学生だった頃の自分は、いまの自分の概念体系をはみ出たものをもっていたに違いない。そんな気がしてならない。でも、そんなはみ出たものを、いまはもう理解することはできない。だが、だからといって、デイヴィドソンの議論を適用して、そんなものはないと切り捨てる気にはならないのだ。(p.106)

私は、「いまの自分の概念体系をはみ出たものをもっていたに違いない」という考えに最近批判的なので、どうしても野矢氏の主張には説得力を感じないのだ。デイヴィドソンのような「いまの自分の概念体系をはみ出たもの」などありはしないと考えるほうが好きだ。
ここで、「いまの自分の概念体系をはみ出たもの」があるかどうかを議論しても仕方がないと思う。私の問題意識もそこにはない。私の関心は、野矢氏が「いまの自分の概念体系をはみ出たものをもっていたに違いない。そんな気がしてならない」というように、野矢氏に「自分の概念体系をはみ出たもの」を持っていたに違いないと思わせるのはどうしてなのか、ということだ。「そんな気がしてならない」と野矢氏に言わしめる要因は一体何なのだろう?
私は<意味を他者>を前にして、自分を変えていこうなんていう、ありふれた道徳には興味はない。哲学は、こんな平凡な道徳を言うためにやるものではないはずだ。その意味で、野矢氏のこの講義にはやや失望を感じる。デイヴィドソンの議論のほうが面白そうだ。

読むことの力 (講談社選書メチエ)

読むことの力 (講談社選書メチエ)