谷崎潤一郎『刺青・秘密』

谷崎潤一郎『刺青・秘密』新潮文庫、1969年8月
この文庫には、「刺青」(明治43年)「少年」(明治44年)「幇間」(明治44年)「秘密」(明治44年)「異端者の悲しみ」(大正6年)「二人の稚児」(大正7年)「母を恋うる記」(大正8年)が収められている。谷崎の初期作品である。
「刺青」は、谷崎の作品のなかでもよく知られていると思う。かつては浮世絵師であった清吉が刺青師となる。彼は、「光輝ある美女の肌」に「己れの魂」を刺りこむことを願い続けていた。そして、とうとう理想の女性と出会った清吉は、その女性に「古の暴君紂王の寵妃、末喜を描いた絵」を見せ、女の内なる性分を目覚めさせる。そして、清吉はその女性の背中に「女郎蜘蛛」を彫る。この「女郎蜘蛛」こそ、清吉の「生命」そのものであった。そして男の生命を吸い取ったかのように、この女性は別人に生まれ変わる。

「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。――お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」(p.17)

「親方」から「お前さん」という呼び方の変化が面白い。一瞬にして、男と女の関係が逆転してしまうのだ。清吉のような男は、のちの谷崎の作品に頻繁に登場する。この間読んだ「鍵」や「瘋癲老人日記」の男たちも、生命をなげうってまでも女性に拝跪してしまう。さらにマゾ的な官能性は「少年」で描かれる。少年たちにいじめられていた少女が、ある出来事を境に、その関係が逆転し、少女に服従することに快楽を見いだしていく物語である。「幇間」になると、そもそも女性の服従すること、女性に笑われることに喜びを見いだす男が主人公となる。
面白いと思ったのは、「異端者の悲しみ」で、文庫の解説を読むと、この作品は谷崎自身が自叙伝的な作品だと述べていた。ひどく貧しい家に住む大学生の章三郎が主人公である。彼は、日々家のなかでゴロゴロして夢や妄想を見ているだらしがない男だ。友達にお金を借りて遊び回り、その金を返さないということで、友達からも胡散臭い奴だと思われている。要するに章三郎はダメダメな男なのである。そのくせ、家族には意固地な態度を取っていて、特に病で寝たきりの妹とはうまくいかない。そんな章三郎が、退廃的な生活や友達と妹の死を経て、小説家になるところで物語は終わる。いかにして「悪魔的」な作家が誕生したのか。「異端者の悲しみ」は、「悪魔的」な作家の誕生の経緯の物語である。この小説は、章三郎のダメさを楽しむのがいいと思う。親戚から借りてきた蓄音機を、操作の仕方が分からずにでたらめに扱って、危うく壊しそうになる章三郎のエピソードに大笑いしてしまう。

刺青・秘密 (新潮文庫)

刺青・秘密 (新潮文庫)