中村光夫・三島由紀夫『対談・人間と文学』

中村光夫三島由紀夫『対談・人間と文学』講談社文芸文庫、2003年7月
三島由紀夫中村光夫が、がっちりと四つに組んで文学とは、小説とは何かを話しある。非常に興味深い内容だった。語られている内容は、現代でも真剣に取り上げてもよいものばかりだ。
たとえば、小説における現実と虚構とは何かという議論。虚構論などは、今こそ必要な議論だと思う。また、三島が「自分で自分のイリュージョンに迷わされぬためには、自分で自分のイリュージョンを意識的に操作してゆくほかはない」(p.130)と語っているのは面白い。三島はこの時「いまは実体がなくてイメージの世の中」だという認識を持っていたことも合わせて考えると良いのだろう。
それから、次の言葉も重要だと思う。

小説を書いていると、大げさなことをいえば、「彼は家へ帰ってきて飯を食った」と書いても、その一行に小説の全運命、全宿命、全問題がみなかかってくるような気がして、その一行書くだけでくたびれちゃう。何で飯を食っただけでくたびれなければならないのか。それはどんな言いかえも可能でしょう。(…)それだけ小説にはいろいろな可能性があるように見えるけれども、どんなに可能性を追求しても小説の持っている運命は逃れられない。何と言いかえても同じだと思うと、言いかえがおしまいに空しくなってしまう。そうすると「彼は家へ帰って飯を食った」ということを人に信じさせるのにはどうしたらいいだろうか、ほんとうに手がでない。そのときの絶望感が、生きているのだから大した絶望感ではないだろうけれども、小説というものはそういうものだと思う。(p.110)

この問題と似たようなことを、たしか最近でも保坂和志が述べていたような気がする。『群像』2005年10月号での石川忠司との対談で、保坂はこう述べている。

『プレーンソング』のときに、書きながらすぐに気がついたのは、「そして、アキラは帰っていった」と無造作に書くと、アキラがいなくなったことで何か事件が起きるような、ネガティブなものを呼び寄せる機能が文章にある。(p.210)

保坂は、映画にも不吉な場面を漂う場面の作り方のように、文章もなぜか自然にそうなってしまうと言う。「それが物語を語ってきたというか、事件に依存してきた小説が育てた文章」かもしれないと。なので、そうではなくて、「彼は事実としてただ帰っただけなんだ」というふうにするために、『プレーンソング』のはじめのほうではかなり苦労したと語っている。これは、小説を書く人の共通の問題なのだろうか。
読者の側からすると、どんな文章でも言葉でも、そこから「意味」を引き出すことが可能だ。作家が事実を事実として書こうとどんなに努力を払ったとしても、この読者による「意味」化の「宿命」からは逃れられないのかもしれない。それは保坂の言うとおり、小説が「事件」に依存してきたからであろう。三島の言うとおり小説を書くことは、小説の持つ「宿命」から逃れようとしてものがれなれない絶望的な試みであることは間違いない。読みの自由は、書き手に絶望感を与えることになるのだろうか。
追記。
「思考錯誤」05-11-04の「母親毒殺未遂事件とリアリティ・ブログ」というエントリーは、上記の問題と関連していて興味深い。

しかし、そこになぜ人の生死――虚構ならぬ現実――が賭け金として積まれるのか。
いや、むしろ問いの立て方を逆にすべきかもしれない。
なぜ私たち(容疑者を含む)は、淡々とした現実として、殺人未遂事件を受け入れることなく、「作品」(虚構)という賭け金を積み増そうとするのか。
無意味な現実に意味を与える物語が欲しいのか。
おそらくそうではない。
欲しいのはむしろ現実感(リアリティ)そのものなのではないか。

対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)

対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)