三島由紀夫『金閣寺』

三島由紀夫金閣寺新潮文庫、1960年9月
このあいだ、映画『みやび 三島由紀夫』を見たときに、平野啓一郎がこの『金閣寺』について語っていたのが印象に残った。映画のなかで、平野はこう語っていた。

金閣寺』っていうのは、一般的には美について語っている小説という風に読まれますが、美というのはそこではひとつの媒介にすぎなくて、実は三島のいう<絶対者>について語っていると思うんですね。(『「みやび 三島由紀夫」プログラム』「みやび 三島由紀夫」製作委員会、2005年7月、p.5)

映画を見ながら、なるほどな、そんなふうにも考えられるだろうなと思った。このことを確認するために、『金閣寺』を再読してみたのだ。
平野はつづけて、三島の場合には<美>と<エロティシズム>と<死>が「常に絶対者と人間を媒介するものとして」出てくると指摘している。そして、それらは小説では主人公を、実生活では人間をからめ取り「自らの秩序のなかに回収してしまおう」とするという。これは、主人公が火を付ける直前にあらためて金閣の全貌を見ながら「美は、これら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた!」(p.321)という認識に至るところからも理解できそうだ。
ところで、もう指摘されているのかもしれないが、『金閣寺』はあきらかに町田康の『告白』へと繋がっていると考えられる。町田康は『告白』で『金閣寺』をやろうとしたのだろう。
もう一つ気になる主題は、「丸いもの」と名づければよいのか、たとえば乳房に代表されるような「丸いもの」の主題が『金閣寺』では何かを意味がありそうだ。老師の頭も「丸いもの」の一つなのだが、これなどはあらゆる現実を軽蔑したものとして、つまりニヒリズムの象徴として描かれている。「丸いもの」がどのように現れるのかが気になる。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)