保坂和志『小説の自由』

保坂和志『小説の自由』新潮社、2005年6月
前半は割と頭に入ってきたが、後半部とくに最後のアウグスティヌスの『告白』を提示しながら(『告白』の読解ではない)、保坂にとって「小説」とはどのようなものであるのかを説いたところは、簡単には理解できそうもない。本書で保坂は、小説を通じて小説を考える――という困難な作業をおこなっている。最近の言葉を用いれば「再帰的」とでも言えるかもしれない。
結局、この作業は「終わり」がないし、保坂も「終わる」ことなんて考えていないのだろう。もちろん、本になっているのだから、とりあえずの「終わり」があるが、まだまだ小説を書くこと(=思考)は続く。「結局この本は何が言いたいんだ」と早急に答えを求める読者を、保坂は相手にしていないのかもしれない。
小説(を書くこと)を通じて、保坂は何をしようとしているのか。次の一節に、それがよく現れている。

 小説は、――小説という概念が生まれる以前の小説の起源としての散文であるところの――、アウグスティヌスの書き方に顕著にあらわれているように、その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは小説を通じて実現されるものであって、小説の外から持ち込んでくるのではない。(p.345-346)

既存の問題を、既存の視点から描いても、問題の質的転換は起らないと言う。このあたりを読むと、保坂にとって「小説」とは「哲学」と言いかえることができるのかと思う。しかし、保坂が「哲学」という言葉を使わずに、「小説」という言葉を使い続けていることには注意しなければならない。
保坂は、カフカの小説には何も意味が書かれていないがゆえに、意味を生産し続けると言う。意味を求めたくなってしまうのだ。「人間は「意味がなければならない」と考えるようにできているのかもしれない。」(p.347)そして、意味がさかんに取り沙汰されるようになったのは、読者の数の多さによるのかもしれないともいう。

読者の数が増えると、作品をそのまま受け止められない読者があらわれてきて、作品を読者に仲介する役割として評論家が駆り出されて、評論家は、読者が未知の領域に連れ去られないように、作品の側でなく読者=社会の側で作品を読むから意味を語ることになる――という仕組みが、文化的なものを必要とする社会の中にはあるのかもしれない。(p.348)

この批判というか指摘は興味深い。
ところで、本書には、このような「評論家」「批評家」への苦言が時折挿入されていて、それが非常に参考になる。今後の自分への戒めのためにメモしておきたい。

 用語が比喩的な意味にすり替わってしまわないことは重要なことだ。「論」として考えるときに、もしその人が問題をクリアにしようとして書いているのなら、比喩的な用法は許されない。比喩的な用法にしてしまうと、論者の意図を離れて言葉の運動として、意味が勝手に横滑りしていってしまう。私たちは科学の時代を生きているのであって、この時代にあって「論」は、数学や物理の論証を雛形としていて、読者も明確には意識していなくても、そういう論証の頭の使い方をして読んでいるのだから、意味を確定しがたい言葉(つまり比喩)を使うことは騙になる。(p.158)

これは、私の体験からもその通りだと思う。かつて、これに似たようなことを自分の日記のなかで書いたことを思い出してしまう。「騙」にならないように気をつけなければいけない。
もう一つは、私自身、非常に耳の痛い批判である。文芸評論家のなかには、自分の持っている思考やイメージを小説のあてはめて「わかった」とする人がいると言い、これを「硬直した読み方」だと言っている。

 この人たちは小説を読むときに間違った「わかり方」をしようとしている。というか、「わかる」こと、「わかろうとする」ことが、結局、小説を読む前に持っていた自分の思考の材料を更新することではなく、事前にあったそれらで小説を腑分けすることでしかないということを示している。(p.187)

これは、私もついやってしまうことだ。それだけ私が「硬直」しているということなのだから、注意しないといけない。「自分の思考の材料を更新する」ことを常に心がけたい。

小説の自由

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