なんだかぴったり当てはまっているような気がする

前にも日記に書いたけど、『ユリイカ』5月号の「鬱」特集を読む。十川幸司「『自己への配慮」を読んで、驚く。
この中で、十川氏は鬱病に関する理論的テクストで重要なものは二つだと述べ、テレンバッハ『メランコリー』とフロイトの『悲哀とメランコリー』を取り上げている。
私が驚いたのは、テレンバッハの内容だ。

他者への配慮――テレンバッハは彼がメランコリー親和型と呼ぶ鬱病者の生の形式をこのように一言で言い表している。

というわけで、鬱病者は他人のことが気になって仕方がないらしい。したがって、他人のために尽くし、対人関係は礼儀正しいし、親切、勤勉、几帳面である。
しかし、彼らにとって本当に重要なのは他人ではなく、「秩序」であるという。

彼らは他人に過剰なまでに奉仕し、他人が喜んでくれるように計らうが、それは彼らの対人関係の秩序を維持するためである。

「秩序」を維持するために、他人への配慮を行っていたのだ。彼らにとって、他人との関係は重要なことではない。むしろ他人は、秩序を維持しようとする彼らの生を攪乱することにもなるだろう。なので、「彼らの対人関係は円滑だが、表面的なものに留まっている」という。

私たちの生の意味やその豊かさが、自己を他者へと開くことでしか生れてこないとするならば、彼らは自らの生の形式に固執することによって彼らの生を貧しくしていると言える。

この箇所を読んで、私は大きなショックを受けた。ここに述べられた生のあり方は、まさしく私自身のことなのでは!と。(思いこみすぎ?)
今年の分の日記だけでも少し読み返すと、この分析に当てはまるようなことが書かれている。私は、日記のなかで、他者との対話といった思考は、実は難しいことなのではないか、といった内容のことを書いたと思う。こういう考え方は、きっと自分の生を自ら貧しいものにしていたのだなあと。それに、たしかに私は自分の「秩序」を守ることを優先してきたと思う。だから、私は他者を過剰に意識していたのか。それは他者と関係することを望んでいたのではなく、むしろ他者との関係を回避したいという願望の現われだったのか。なるほど、自分の性格だと思っていたことが、テレンバッハによって見事に説明ができて、なんだかうれしい(「鬱」で嬉しいということではなくて)。自分が物事を考えたり、何か行為したりするときの前提となっていたものが分かったことが重要なのだ。これまで何かを考え、論じるとき、暗黙の前提になっていたのは、自分の「秩序」を守ることだったのだろう。ここが私の出発点だったのか。
ところで、しかし、この私の性格、つまり他人より「秩序」が重要だと思うことは、文学研究者として致命的な欠点なのではないだろうか。他人へ配慮しているようで、実は他人とは表面的な関係しか結ばない。そのようなことをしていて、はたして文学を読むことができるのか。
自分の生を混乱させる「他人」から逃げることなく、避けることなく、考え理解しようとすること。それが文学作品を解釈するということではなかったか。私が何年経っても、文学作品の読解が下手なのは、他人のことを考えているようで、実は自分のことしか頭になかった、ということが原因なのでは、なんてことを考える。