宮台真司・北田暁大『限界の思考』

宮台真司北田暁大『限界の思考』双風舎、2005年10月
非常にボリュームがあって読み応えのある本だった。内容も、社会学カルチュラル・スタディーズ、70年代・80年代論、左翼・右翼など、多岐にわたる。それでも、中心となるキーワードは「アイロニー」であろう。アイロニーは、最近の宮台氏にとっては欠かせない重要な概念だし、前の仲正昌樹氏との対談本でも論じられていたことだ。
宮台氏がアイロニーを語るとき重要視するのは、それが「オブセッシブ」であるかどうかということだ。宮台氏が批判するのは「ベタ=オブセッシブ=依存」であり、特に虚構に依存してしまうことに注意を与える。オブセッシブつまり強迫的なアイロニーは、「韜晦」とされ、「どうせオイラは…」という開き直りのために、自分自身がズレることに関心がなく、対象をズラすことだけに執着する。一方、ノンオブセッシブなアイロニーは、「諧謔」と言われ、対象をズラす自分からもズレる。それによって、アイロニーから自由に離脱可能となる。対象をズラすだけか、対象をズラす自分からもズレるか。この違いが重要で、「あえて」ということが推奨されるのは、こういう理由からだ。
諧謔」から「韜晦」への流れを、「教養」から「批評」という流れでも説明している。「教養」とは何か。教養は「ズレること」だという。それに対し「批評」とは、「ズラすこと」だと言う。教養のイメージは旅のイメージだ。旅によって見識を広げ、拡がった世界の中に自分を位置づけし直すことを「教養」であると。「教養」はズレることへの欲望であると言う。そして、宮台氏の世代=原新人類世代は、このような「教養」な世代だった。しかし、続く世代は教養主義から批評へと移行してしまう。批評は「ズラす」ことだけで、ズラす自分からズレることがない。そして「教養から批評へ」と変化するにつれオブセッションが、つまり対象をズラすことがやめられないという状況が強まったのではないかと言う。
「批評と韜晦のコンビネーション」の依存からどうやったら抜けだせるか。これが大きな問題となっている。北田氏も、基本的にこうした宮台氏の見取り図に同意しつつも、宮台氏の戦略には限界があるのではないかと、時折疑問を差し入れているところが良い。本書によって宮台氏の考えていることが理解しやすくなったのも、北田氏の存在が大きい。宮台氏と向う方向は一緒でも、北田氏なりの方法を模索している姿も注目に値する。宮台氏が理路整然として自身の理論体系を語るのに対し、北田氏も逡巡しながらも自分の立場を提出している。このようなコントラストが興味深い。
さて、オブセッションをいかに回避するのかについて戻ると、宮台氏はここで「歴史」を持ち出している。このあたりは、ルーマンの意味論などを例に出して説明したりもしている。これも「教養」に繋がることなのだが、要するに歴史を遡ることによって、同じにみえる意味が、かつては違っていたことを理解し、それがどう違って、どのような経緯で変わったのかを理解する訓練が必要なのだ。こうして、もういちど世界の時間軸のなかに自分を位置づけし直すことができれば、不透明さのなかで抑鬱的になる若い人もカタルシスを得られるだろうという。(p.397)
このあたりは、私はその通りだと思った。「いま・ここ」ばかり注目して、歴史を顧みないような批評はイヤだなと思う。最近の文芸批評がつまらなくなったのも、「いま・ここ」ばかりを問題にして、歴史の軽視や教養の軽視しているからではないだろうか。文芸批評がどのような歴史を辿ってきたのか、もう一度確認する必要があるのだろう。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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