町田康『告白』

町田康『告白』中央公論社、2005年3月
すごい小説。傑作であることは間違いなし。
実は、この本は昨日にでも読み終えることができたのだが、なんとなく読み終わってしまうのが惜しくて、読むのを避けていた。最後を知るのがどうしても嫌だった。というか結末に至るのがほんとに怖かった。もっともっと長く続いて欲しい。はっきりとそう感じた。しばしば蓮實重彦が、似たようなことを映画評論のなかで書くけど、この『告白』を読んで蓮實の気持が理解できた。すぐれた「物語」に出会うと、人はその「物語」が永遠に続いて欲しい、終らないでほしいと願うものなのだ。町田康の『告白』は、私にとって永遠に続いて欲しい「物語」なのだ。
河内を舞台にした「河内十人斬り」とは、熊太郎と弥五郎という男二人が、「恋の恨み」「金の恨み」で怨敵松永一家を襲い、女性や子どもを含む十人を惨殺した事件。その後、岩井梅吉という人物によって演じられ大人気となり、いまもって河内音頭のスタンダードナンバーとなっているという。
事件後、二人は自殺したので、事件の真相は闇のなかであり、謎なのだが、この謎を町田康は「思考」と「言葉」に求めている。
熊太郎が、子どもの頃より自分が他の人物と違うと感じていたのは、自分の思ったことが言葉にならないという悩みであった。それを語り手は、熊太郎が「思弁的」であると言う。「思弁的」であるがゆえに、他の人のように思ったことを口に出せない。だから、他人から自分はアホだと思われてしまう。そして村からはみ出した人物として見られてしまう。そう熊太郎は意識する。その意識がますます熊太郎を「思弁的」にしていく。
常に満たされないと感じる熊太郎。そのような自意識の肥大化、「内面」という訳の分からないものが熊太郎に住みついてしまう。そして、熊太郎が最後に見たのは、自分の内面の巨大な「虚無」すなわち「何もないこと」であった。「告白」というタイトルは、それゆえアイロニーなのかもしれない。
河内の言葉で語られるこの小説は饒舌だ。まるで漫才を聞いているような語り口。テンポが良い語り口なので、とても読みやすく面白い。事件はひどく陰惨なものなのに、小説全体は「笑い」に包まれている。
シンセミア』となんとく共通することが描かれていると感じた。具体的にどこが共通しているのかは言えないが。たとえば、物語を生み出す「土地」であったり、村(共同体)の牛耳る権力者の存在。オカルト的なテーマ。この二つが共通していることをなんとか証明してみたいものだ。町田康阿部和重の二人は、現代文学の作家のなかでも特に「物語」の方法に敏感であり、同時に現代でも「物語」が充分に魅力があること、「物語」の可能性を提示し続けている作家であるだけに、なおさら興味がある問題だ。「物語」の行方を考察するには絶好のテクストだと思う。必読。

告白

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