加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』

加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』勁草書房、1990年5月
第一部が映画論、第二部が小説論、第三部が漫画論の三つに本書は分けられている。内容が充実していて面白いのは、映画論。小説論はまあまあ。漫画論はイマイチ。全体を通じて、分析の中心となっているのは「メロドラマ」である。
メロドラマとは何か、ということを本書を全体で問うわけだが、いちばん分かりやすいのは第二部のはじめにある「メロドラマの一般原理」という章だろう。ここでは、村上春樹の小説を使って、メロドラマの特徴を説明している。
たとえば、「過去の回帰」という特徴。メロドラマの「メロ」はもちろん「メロディー」のことだが、懐かしい曲とともに、主人公に「失われた時間」が戻ってくる。著者は、「メロドラマ的物語は二重の意味で過去についての物語」(p.91)であると指摘する。メロドラマは、「かくあるべき(だった)事態の遡及的回復」を試みる。それは、「いかにすれば、より幸福な人生を送っていただろうか」という反省であり、また「本来われわれ(恋人たち)は生きるに価する幸福な人生を送ることができたはずだという無反省な信念から振り返られた過去である」(p.91)。メロドラマという言葉が蔑称として受けとめられてきたとすれば、その理由として、「道徳的に固定された価値観」、「「現実」との滑稽な乖離につきまとう逆説的な「現実」肯定主義」、「敗北主義」といったことからであるという。

メロドラマのヴェクトルはつねに後ろ向きであり、メロドラマの物語は未来の革命を模索するのではなく、幸福な過去の「黄金時代」の回想録としてしか語られない。(p.91)

現在の「わたし」のもとに、「過去」が戻ってくるのは、回想の主体である「わたし」に質的な変化をもたらすためである。そして、その修正は、「道徳的に固定された価値観」によって行われるという。人生がある価値観によって軌道修正される守旧的なイメージと、同時に過去を修復することは不可能な試みであるという、このような「不可能性」「荒唐無稽な敗北主義」「感傷主義」がメロドラマに「否定的な価値」を与えることになる(p.92)。こうしてメロドラマは、正しいもの/誤ったもの、あるいは善/悪、光/影といった「二元論的ダンス」(p.93)となる。
このあたりを理解しておけば、とりあえずメロドラマの基本を押えたことになるのだろうか。「メロドラマとは〜〜である」と簡単に定義できるものではないので、さらなる研究が必要。やはりピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』は読んでおくべき本であろう。

愛と偶然の修辞学

愛と偶然の修辞学