前田愛『近代日本の文学空間』

前田愛『近代日本の文学空間−歴史・ことば・状況−』新曜社、1983年6月
他の本と内容がかぶる論文やエッセイがあるけれど、じっくり読むと文学研究のヒントになることが多い。前田愛が書き残した物から、たくさんの研究が生れたのだなあと思う。現在の近代文学研究の中心にいる人たちは、前田愛の研究をより深く発展させてきた人たちなのだろう。
私は、文学の文体や表現方法に関心があるので、たとえば「幕末・維新期の文体」とか「明治の表現思想と文体」などは面白かったし、「覚え書・明治大正の文体」は明治・大正の作家の文体の特徴をメモ書したものであるが、文体史の勉強になる。

活字の権威が失われて音声言語や視聴覚メディアの役割が相対的に大きくなっている現代は、江戸の庶民が音声言語の世界から文字言語の世界へと足をふみ入れようとした文化文政時代と奇妙なアナロジイをかたちづくっているのである。こうした角度から三馬(*式亭三馬)の作品を読みかえしてみるとき、私たちはそこからさまざまな示唆をうけとるにちがいない。(「幕末・維新期の文体」p.257)

メディアに関心があるので、前田愛のこの言葉は注意しておきたいなと思う。私は幕末・維新期の文学は、どうしても研究が手薄になってしまう。私が「近代文学」という時、たいてい明治40年代以降の文学しか想定していない。この暗黙の前提を打ち破るためにも、幕末から明治初期の文学に取り組まないといけない。
私は、近代/前近代とか近代/現代のように、二つの時代をばっさりと断絶させるような思考はあまり好ましいものではない、という立場を取りたい。私が重視するのは、<断絶>よりも<連続性>だ。切れ目を見つけるよりも、意外な繋がりを見つけるほうが楽しいと思う。このためには、もっとたくさんの作品なり研究にあたらねばならない。が、しかし――ここにも一つ問題がありそうだ。
前田愛は、昭和51年のシンポジウムで、近代文学の研究者が増えてきたが、その一方で研究者に「いい意味でのアマチュア精神」が失われてきたと述べたという。「いい意味でのアマチュア精神」とは、「ほかの文化領域、学問への貪欲な好奇心」のことだ。この精神が、80年代以降の日本近代文学研究に新たな展開を生み出したのは間違いない。しかしながら、現在はその反動というか反省の動きもあると思われる。あまりにも他の文化領域や他の学問へ行き過ぎてしまうのもいかがなものか。こう述べたからと言って、今さら「カノンへ還れ」という時代錯誤を主張したいわけではないのは言うまでもない。
どうしたら「アマチュア精神」を文学研究にうまく活用できるのか。難しい問題である。

近代日本の文学空間―歴史・ことば・状況 (平凡社ライブラリー)

近代日本の文学空間―歴史・ことば・状況 (平凡社ライブラリー)