幸田文『父・こんなこと』

幸田文『父・こんなこと』新潮文庫、1955年12月
ちょっと前に、モブ・ノリオが『介護入門』(ISBN:4163234608)で芥川賞をとった。これで、何て言うか「介護文学」なんていうのもあり得ると予感させた。
幸田文の「父」は、もちろん文豪の幸田露伴だ。本書は、偉大な作家であり父露伴の最後を看取った時のことを書き留めた作品である。この父と娘の関係、とりわけ幸田文の父に対する複雑な心境が書かれていて読み応えがある。
さて、これを「介護」という視点から読むと、現代の「介護」における諸問題に通じるところがあるのではないだろうか。たとえば、こんな一節がある。

 本職の看護婦は休養の時間をきっぱり要求する。うちのものの看護は大抵の場合、休む間もなくだらだらと無際限に働かされ、病人のわがままに最も弱くなくては優しいと云われなかった。そのうえ私の場合には、「先生は国宝的なかただから、どうかしっかり御看病願いたい。あなたも辛いことがおありでしょうが、りっぱなおとうさまをおもちになったのだから御辛抱なすってください。」しばしばそう云われた。何をか云わんやである。父は優秀かもしれず、それに親である。私は平凡な一女人、それに子である。国宝は大切だ、いいものは貴い。女だてらに縁の下でみごとな力瘤を見せたり、鍬の尖に犂きこまれる雑草の花としおらし面をするのもいいけれどそれはあくまで親と子のあいだでやって行きたかった。人からちゃらっぽこに悲壮なる犠牲的献身などと扱われるのは、不服でもあり悲しかった。(p.58−59)

こんなふうに率直に語るのは、幸田文の特徴だし、彼女自身、自分のこうした性格を意識していたように思われる。この自己認識が、父との関係に影響しているようだ。この後、病人の着ているもの話になる。病人で、年も取って力もないので、食事の際に蒲団や着ているものを汚してしまう。しかし露伴も意地があるのか、少々の汚れでは、このままでよいと言って着替えを許さず、機嫌を悪くする。だが、介護をする幸田文にとってはそうもいかない。「そんなところへ意地悪の眼が来られてはやりきれない。「白いものが白くない、ああ先生もお気の毒な。」私はそんなことを云われて悔しかった覚えがある。」(p.59)
だが、本当に怒り悲しかったのは、父の死の原因が「私」に押しつけられる、それも父によってそうきめられそうに考えられることだと言う。「おまえが、おまえが」と言われていると次第に抵抗できなくなっていく。

いつか自分も父の云う通り、ほんとにあの時おとうさんを防空壕に無理に入れたんで、それが原因で今こんなに病んでいなさる。お気の毒なと思う。暗示はかなり強く私に作用した。しまいには、おとうさんを殺すのは私だと、おびえるような時もあった。身近にかしずく者はときに過ぎたる賞賛を受けることもあるけれど、もっとも苦しんで且悪名を被ることもあり得る。(p.61)

このあたりの、看病時における自身の内面を記述する文章は、本当に巧みで読み応えがある。ここの内容は、現代の人が読んでも考えさせれられることがあるのではないかと思う。「介護文学」の傑作であろう。今こそもっと読まれるべき作品なのではないか。

父・こんなこと (新潮文庫)

父・こんなこと (新潮文庫)