溝口健二『雨月物語』
◆『雨月物語』監督:溝口健二/1953年/日本/97分
原作は、上田秋成の『雨月物語』の「蛇性の淫」と「浅茅ヶ宿」。
何度か見たことがあるし、レーザーディスクでも持っている映画だ。この映画は、しばしば溝口独特の映像美が称えられる。特に若狭の家の幻想性は注目に値する。
この映画の幻想性を支えているのは、おそらく「炎」「火」であると思われる。炉の火、明かりをとるためのろうそくの炎。この火や炎に照らされる人物は、まちがなくこの世の者ではない。火には人を寄せ付ける妖しい魅力がある。もちろん、この映画は物語の背景が戦乱の世であるので、火はまた破壊の意味も持っていることも忘れてはならない。人を引き寄せ、全てを破壊する「火」。本作は、こうした火の想像力を充分に活かした傑作なのだ。
たとえば、源十郎は金に取り憑かれてしまうが、その金を生む商品=焼き物の製作には火が欠かせない。焼き物を完成させるためには窯の火を絶やすことが出来ない。それゆえに、村が武士に襲われ危険な状態にもかかわらず、源十郎は窯の様子を見に行くだろう。火が生み出した「焼き物」は、源十郎に「金」という幻想を見せる。この「火」のもたらす幻想に取り憑かれていたために、彼は「若狭」に魅入られてしまう。彼は「金」や若狭の「美」に惑わされたというよりも、それらを支える「火」に狂わされたのではないだろうか。
ラストシーンを見てみよう。若狭の幽霊から逃げ出した源十郎は、廃墟となった若狭の屋敷を後にして、自分の家へと帰る。荒れ果てた自分の家で、妻「宮木」(田中絹代)と息子を捜す。この場面は、アンゲロプロス風の映像になっていて興味深い。家の中に入った源十郎が、一旦家の外に出て、もう一度家に入っている様子をカメラは追いかけていて、ぐるっとカメラは一回転する動きをする。そうして家のなかに戻ると、なぜかいないはずの宮木が、炉に火をつけて、ろうそくに火をともして、坐っている。ここまでワンショットでたしか構成されていたはずだ。
ともかく、ここでも「火」が存在していること、「火」が死んだはずの宮木を照らしていることが重要なのだ。先に「火」に照らされる人物は、すでにこの世の者ではないと述べたのは、この理由のためだ。久しぶりの帰宅で、良い気持で酔った源十郎は子どものそばで寝てしまう。そっと着物をかけてやる宮木。そして、宮木は火の消えたろうそくに火をともし、なにやら仕事をするだろう。幽霊と「火」が密接な関係にあることがよく分かる場面だ。そして次第に夜が明けて、朝日が家を包み込む。暗闇がなくなれば、もう「火」は必要ない。それは宮木が消えることを意味する。こうして源十郎は、宮木の死を知ることになるのだ。
「火」と幽霊あるいは幻想性。これが、本作品の重要な主題であることは間違いない。もちろん、この分析は源十郎と宮木の物語の分析のみで、もう一つの藤兵衛とお濱の物語までは触れてない。こちらはまた別の主題があるのだろう。それは「水」であろうか?。何か見逃している重要な主題が、ほかにもありそうだ。