川端康成『千羽鶴』

川端康成千羽鶴新潮文庫、1989年11月
千羽鶴」の部分が昭和24年から27年にわたって書かれ、「波千鳥」の部分は昭和28年から29年に書かれた。
主人公の「菊治」と、かつて菊治の父の愛人であった女性たちの関係を描く。一人は、何かと菊治の世話を焼く「栗本ちか子」。ちか子が嫌っている「太田夫人」とその娘「文子」。それから、菊治の父とは関係がないが、菊治と結婚することになる「ゆき子」。これらが主な登場人物たちである。どの女性もそれぞれ印象深い。
これらの人間たちの間を行き来するものが、茶碗や水指といった焼き物だ。山本健吉の解説によると、「志野の茶碗の感触と幻想から、作者は太田夫人という中年の女性を創り出したのだろう」とかつて井伏鱒二が語ったそうだ。山本は、「これは非常にうがった解釈であるかも知れない」というが、井伏の評は必ずしも適確ではないのかもしれないが、この小説を読み終えてみると、井伏の気持も理解できないことはない。しかし、私には茶道や骨董の世界がまったく分からないので、「志野の茶碗」と言われたところで、うまくそのイメージができないのが歯がゆい。
その一方で、私が気になるのはこの小説における「父」の存在だ。いや、存在という言い方はふさわしくない。正確には、「父の不在」が気になる。菊治と結婚するゆき子には父がいて、小説の一番最後の場面に、新婚の菊治の家に遊びに来ることになっている。しかし、「あくる日、ゆき子の父と妹とは朝十過ぎに来た」(p.270)と一行あるだけで、その父と妹のことをまったく触れないで小説は終わってしまう。この書き方は少し変だ。うがった見方をすれば、父のことを触れるのを回避しているようにも思える。
ゆき子以外の登場人物の父親は、すでに亡くなっていたりして、直接小説の中に登場することはないのだが、存在しないがゆえにかえって登場人物たちに強い影響力を持っているようだ。不在の父、存在しない父が、物語を基底していると言えるのではないか。したがって、後半部で、旅に出た文子が「父の故郷」(文子にとっては異郷)へと向かうのはどこか象徴的である。なぜ文子は父のところに行けば、「悔い」や「罪」が消えると思うのか。
「父」の問題と関連が、というか強引に結びつけて考えてみたいこともある。それは天皇の問題だ。最近、戦後の川端の小説をいくつか読んでいるけれど、東京が舞台の小説では、皇居の周辺がちらっと出てくることがある。あくまで皇居の周辺であり、その中心に触れることは決してないのだが。なぜ、川端は皇居の周辺に触れてしまうのだろうか。

千羽鶴 (新潮文庫)

千羽鶴 (新潮文庫)