吉村公三郎『越前竹人形』

◆『越前竹人形』監督:吉村公三郎/1963年/大映/101分/シネスコ
撮影は宮川一夫。原作は水上勉。主演は若尾文子若尾文子は良いなと思う。映画もすばらしかった。
越前の山奥の寒村で、竹細工の職人の男のもとに一人の女性(若尾文子)が訪ねてくる。どうやら亡くなった父と関係があった人らしく、お墓参りに来たのだ。男は、この女性玉枝に一目惚れをしてしまい、玉枝が住んでいる遊郭に何度も会いに行く。そして、芸者をやめて家に来るように頼むと、玉枝は年季がもう少しで終わるので、その時に家に行くかどうかを決めると約束する。
年季が明け、玉枝は男のもとに嫁としてやってくる。結婚式も終え、二人だけの生活が始まるが、男は玉枝に近寄らず、玉枝を避けるかのように仕事に没入する。玉枝は不審がり、男にどうして避けるのかを尋ねるが、はかばかしい返事はない。男は、竹人形が認められ、京都の土産物屋から注文を受けるようになる。ある日、その店の番頭がやってくる。男は仕事で出かけ、家には玉枝一人。番頭は、むかし玉枝が京都の島原で働いていたときの馴染み客であった。番頭は、男がいないことをいいことに、玉枝を襲ってしまう。
しばらくして、男の竹細工の仕事は活発になる。弟子もとるようになった。が、しかし相変わらず、男は玉枝に触れようとしない。玉枝はある晩、思い切って男の寝床に入ろうとするが、激しく拒否される。男は、玉枝は自分の母なのだと言う。だから、一緒に寝るのはやめてくれと。苛立つ男は、家を飛び出る。男は、玉枝の妹分のところに行く。そこで、玉枝と男の父親はまったく肉体関係はなかったと聞かされる。それを聞いた男はようやく安心する。男はいそいで家に戻り、玉枝にこれまでの態度を詫び、これからはもっと愛することを誓うが、その時玉枝の身体に異変が起きる。
翌日、玉枝が医者に行くと、妊娠していることが分かる。動揺する玉枝。堕胎することを考え、京都へ向かい、妊娠の原因である番頭のところに行く。番頭に、医者を世話するように頼むが、はたして番頭は再び玉枝の身体を求める。必死に玉枝は逃げ、京都の唯一の知り合いのおばさんのところに行こうとするが、おばさんの行方が分からない。島原や橋本を彷徨う玉枝は体調を崩し、渡し船のなかで気を失ってしまう。
この場面は、若尾文子の姿が、ちょうどミレーの描いたオフェーリアの姿と重なり美しくかつ痛ましい。若尾文子は水中ではないが、渡し船のなかで横たわり、長い髪が水中を漂っている。これは、もちろん「死」の表象で、玉枝が妊娠していた胎児は、渡し船の船頭の爺さんによって取り上げられ、胎児は川に棄てられてしまうのだ。これで万事解決かと思ったが、運命の歯車は止まらない。「死」は胎児だけではなく、ただ一度の過ちを犯した玉枝を罰するかのように、玉枝自身にも降りかかるのだ。体調が回復しないまま、嵐の中、越前の家になんとかたどり着いた玉枝。しかし、この時の玉枝の声は、いかにも幽霊のような声で処理されていたこと思うと、すでに玉枝は死んだも同然だったのかもしれない。光と闇の交錯する空間のなかで、玉枝の姿は、稲光に照らされた一瞬だけ浮かび上がる。この映像の美しさは、宮川一夫の成せる技だろう。この最後の場面は、『雨月物語』のように、現実と非現実の世界の区別が曖昧になっていると言えるだろう。
ともかく、家にたどり着き、夫と再会を果たすが直後、激しい雷鳴の聞こえる中、玉枝は息を引き取る。玉枝を失った男は、気力を失い、後を追うように死んだということだ。映像は、今や跡形もなくなった屋敷の跡と玉枝と男の墓を映している――。