川端康成『愛する人達』

川端康成愛する人達』新潮文庫、1951年10月
短篇集。全部で9つの短篇が収められている。解説を高見順が書いている。この解説を読むと、ここに収められた作品は昭和15年に書かれたものということだ。そして、翌昭和16年に単行本として出た。「この『愛する人達』は太平洋戦争勃発の日に、はしなくもその初版が出された」(p.189)と解説には記されている。高見は、こう続ける。「その頃の多くの作家の多くの小説集のように硝煙の臭いが作品のなかに立ちこめているということが一向に無い。」
これは、確かに高見の言うとおりで、この9つの短篇から、「戦争」という時代を連想するのは難しいかもしれない。「愛する人達」というタイトル通り、「愛」にまつわる物語ばかりだ。
高見順の解説をもう少しだけ引いてみる。

それどころか『燕の童女』の主人公は汽車のなかで「眼の青い、髪の赤い」混血児を見て「世界中の人種が雑婚の平和な時代」はいつ来るであろうかといった感慨を抱いている。平和否定の声が荒々しく叫ばれていたときに当って、「平和な時代」に想いをいたす作家は稀であった。(p.189)

この「燕の童女」は、「牧田夫婦」が新婚旅行の帰りの汽車のなかで、西洋人と日本人との間の「混血児」を見つけ、この少女が一人で遊ぶ様子を二人がじっと見つめているという話だ。高見が引いた文章は、一番最後の場面にあたる。妻の章子が「この子供を、盗んで行っちゃおうかしら。」と冗談を言う。そして夫はこう考える。

「なかなか盗まれるもんか。しっかりしたもんだ。」
 と、牧田は言ったが、ふと、二人の間に、眼の青い、髪の赤い子供が生れたら、どうであろうかと思った。
 そのような、世界中の人種が雑婚の平和な時代は、遠い未来に来るであろうかと、ぼんやり考えた。(p.116)

この「雑婚」という言葉はどうだろう。当時、この言葉がどのような意味を持っていたのか、非常に気になるところだ。それによっては、高見順の言葉も再考する必要があるのではないだろうか。

愛する人達 (新潮文庫 (か-1-4))

愛する人達 (新潮文庫 (か-1-4))