ゾラ『獣人』

◆ゾラ(寺田光徳訳)『獣人――愛と殺人の鉄道物語』藤原書店、2004年11月
「鉄道」というテーマは、近代の文化史で必ず注目される重要なテーマで、もちろん近代文学でも「鉄道」がもたらした感性の変容がしばしば描かれる。「鉄道」というのは「近代」の一つの大きな象徴なのだろう。
『獣人』も「愛と殺人の鉄道物語」と副題に付けられているように、「鉄道」が重要なモチーフになっている。近代と鉄道の絡みで言えば、この小説の一番最後のがもっとも象徴的な場面となっている。今なら近代批判、国民国家批判と呼べる文章だ。

 機関車が途中で犠牲者を出したところでなんであろう!血が飛び散ることなど気にもかけずに、機関車はなおも未来へ向かって進んでいくではないか!機関車は死のなかに放たれた。眼も見えず、耳も聞こえない獣のように、機関士もなく闇のなかをただひたすら走っていた。積荷の肉弾兵たちは、すでに疲労でぼーっとなり、酔っぱらって、歌を歌いつづけていた。(p.509)

やがて戦争の世紀を迎え、戦場に次々と兵士を送り込み、それこそ無数の戦死者を生み出した「近代」の原理、「近代」のテクノロジーに対する批判として、こうした一節を読むのも悪くないだろう。
この暴走しつづける鉄道のように、この小説の登場人物たちは欲望あるいは(動物的な)本能に取り憑かれ、その欲望を充足すべく脇目もふらず突き進み崩壊していくの特徴だ。この作品は、「執着」の物語なのである。正直、嫌な性格の人間たちばかりなのだけど…。たとえば、いくら悪党でもバルザックの小説の悪党はどこか憎めない、それどころか非常に魅力的な人物でもあるのだが、ゾラの『獣人』の人間は悪党でもなく、かといって善良でもなく、うまく説明できないのだけど、もう読んでいて腹立たしくなる不快な人物たちばかりだった。
この小説の中心となる人物は、ルボーとその妻セヴリーヌそして、セヴリーヌの愛人になるジャックだ。とりわけ、ジャックは物語内では異質な存在で、他の登場人物たちは一線を画していることは注意しなければならないが、この3人もやはり欲望あるいは本能に取り憑かれた人間なのだ。ルボーは嫉妬やギャンブルに取り憑かれているし、セヴリーヌは性に取り憑かれている。そしてジャックは、殺人の欲望に取り憑かれているのだ。ルボーにせよ、セヴリーヌは通俗的な欲望に走っているといえるが、ジャックの殺人志向は欲望というより、本能、人間のいや動物のもつ原初的な本能であることが強調されている。この点、他の登場人物とは異なるといえる。分かりやすくいえば、ジャックという人物はかつて宮台真司が「脱社会的」存在と呼んでいた少年に近いと言えばよいのだろうか。
ジャックとセヴリーヌの関係が、物語の中心を占めることになるが、私の趣味で言うに、このセヴリーヌがあまりにも魅力がない。というか、腹立たしい。ゾラの描き方がそれだけ巧みである証拠かもしれない。このセヴリーヌ、ジャックとの関係によって真の愛に目覚めてしまったから、さあ大変。寝てもさてもジャックと一緒にいることしか考えられなくなってしまう。要するに頭のなかはセックスのことしかないというわけだ。ジャックにだけ愛を捧げていれば、物語的には美しいかもしれない。しかし、セヴリーヌはジャックだけしか愛せないと言いつつも、男に無理矢理言い寄られたらふらふらっとよろめいてしまうような女性でもあるのだ。町田康の『告白』で、熊太郎と結婚するあの女性と似ているかもしれない。
読んでいて「セヴリーヌって、バカなんじゃないか」と思ったりしたのだが、フェミニズム的に見ると、ゾラが女性を肉欲しか頭にない愚かな存在だと考えていた、ということになるのだろうか。ここにゾラの女性蔑視が現れていると。したがって、こういう性的に奔放な女性は、物語の定石通り、パニッシュメントを受けるハメになるだろう。物語的に、こういう女性が幸福になるはずがないのだ。
登場人物にはイライラさせられるが、それだけゾラの筆運びが巧みなのであろう。とにかく物語は非常に面白い。やっぱり19世紀のフランスの小説は素晴らしい。ゾラの他の作品も読みたくなってきた。

獣人 ゾラセレクション(6)

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