山田雄三『感情のカルチュラル・スタディーズ』

山田雄三『感情のカルチュラル・スタディーズ−『スクリューティニ』の時代からニュー・レフト運動へ−』開文社、2005年5月(ISBN:4875719833)
サブタイトルにあるように、本書の分析対象となる時代は戦中・戦後から1970年前後までである。カルチュラル・スタディーズの源流を探索しようという試みと言えるかもしれない。中心となる人物は、レイモンド・ウィリアムズである。本書をレイモンド・ウィリアムズという一人の研究者・作家を対象にした研究と捉えるのであれば、資料をまめにあたり分析をしているのでとても参考になるものである。だが、カルチュラル・スタディーズ系の文化理論の書と捉えるなら、かなりあやしい本。理論に手を出さず、禁欲的にウィリアムズ研究に徹すれば良かったのにという印象を強く受ける。
著者が、ウィリアムズを読み解く際に注目したのは「感情構造」という概念である。この概念、特に「感情」とあるので、どんな概念なのか把握するのが難しい。というか、ウィリアムズに沿っていくと、そもそも漠然とせざるをえない概念なのかもしれない。本書が説明するところによると、「「感情構造」とは、抽象的な概念を与えるには未発達、未分化な感情だが、社会を流動化するエネルギーを備蓄した総合的な構造」(p.120)であり、これが文化の形成に大きな役割を果たしているらしいのだ。それ故に、ウィリアムズは文化研究をする際に、この「感情構造」という概念をよく用いているらしい。定義からして、具体的にこれだと指し示せるものではないのだろう。ともかく、著者はウィリアムズの活動の中心に「感情構造」を置く。ここまでは、まあ妥当な分析だ。
しかし、この非常に漠然としていて、ウィリアムズが「それが感情構造だ」と言えば、なんでも当てはまってしまうような概念を、著者がそのまま受けとってしまって良いものか。なぜ、著者はこの「感情構造」となんの批判をすることなく、文化を読み解く一つの概念として言祝ぐのか私には理解できない。無前提に「感情構造」を著者が用いていることが、本書の大きな欠点なのではないか。
著者は、ウィリアムズの「感情構造」が、その後いわゆる「言語学的転回」のあとに、どのように受け継がれていったかもトレースする。特にステュアート・ホールに、このウィリアムズの「感情構造」という概念がどう伝わったのかを議論している。それによると、初期のホールは「感情構造」をしっかり受けとっていたらしいのだが、ある時期からこの概念から離れていることが理解できる。それに対して、著者は「「言語学的転回」は、「感情構造」を無効化することによってのみ可能となったのだ(p.238)」と解釈するのだが、そうとも言えるが別の可能性もあるのではないか。
つまり、ホールにとって、こんな漠然としいる「感情構造」という批評概念は、使いものにならないと。そういう可能性はないのか?。概念が粗雑なために、ホールがおこなおうとした文化研究には耐えられなくなっていたのではないか。私はホールの著作を読んでいるわけではないので、あくまで推測で言っているにすぎないが。ウィリアムズはともかく、ウィリアムズを批評する著者自身が、何の批判もなく「感情」「感情構造」という言葉を用いているのを見ると、疑問を感じざるをえない。
そもそも、著者がどうしてこんなあいまいな概念にこだわるのか。「感情構造」という概念を、再評価する意図が理解できない。推測するに、著者が前提としているのは、文化(あるいは文学)にはコード化されることがない「何か」があるという考えではないだろうか。著者の「感情構造」再評価は、そうした素朴なロマン主義というか素朴な文学観によって支えられているのではないか。あまりにも稚拙だ。
しかし、人間の文化の営みには言語にならない「何か」が、またはコード化されることのない「何か」があるかもしれない、という考え方もまた自明ではあるまい。自明だと思える「文化」観を疑い批判する、それがカルチュラル・スタディーズではなかったか。このあたり、著者の批判の不徹底さが露呈していると思う。概念批判の不徹底さは、最後の第7章を穴だらけの結論にしてしまう。
第7章は、「知識人」と「表象=代弁」の問題を論じている。ここでの「表象=代弁」批判は平凡な内容で、著者の独自なそれほど見解は披露されていない。グラムシスピヴァクなどの知識人論、表象批判を整理したものだ。この整理のなかから、著者が「有意義な「表象=代弁」が可能になるのは、読者や聴衆が分かる感情の言語ではなく、自らの身体に染みわたった被代弁者の感情の言語を通して、知識人が語るときだけなのである(p.273)」と記すが、一体誰が「自らの身体に染みわたった被代弁者の感情の言語を」「知識人が語」っていると判断するのか。身体に染みわたった言語/染みわたっていない言語を、簡単に見分ける方法があるのか。
はじめに述べたように、この本はウィリアムズ研究に徹すれば、それなりの研究書になったであろうが、著者がそこにとどまらず表象批判、知識人論を最後に展開したために、ひどく凡庸な本に終っている。文化理論を展開したいのであれば、批判を徹底する作業が必要だったと思われる。