亀井秀雄『感性の変革』

亀井秀雄『感性の変革』講談社、1983年6月
再読か再々読になる本。何回読んでもすばらしい本だ。近代文学に関する評論では、群を抜いている。出たのが1983年なのに、未だにこの評論の価値は失われていないし、それどころかますます重要性が増しているのではないかと思う。多くの研究者が嘆いているように、本書がもう長い間品切れ状態にあり、また文庫にもなっていないという事態は近代文学研究にとって不幸としか言いようがない。もし、この本が復刊なり文庫化されたら、私はぜったいに2、3冊は買ってしまうだろうなあ。
この本の帯にはこう書かれてある。

日本近代文学の成り立ちとその構造の中に、《無人称の語り手》と呼ぶべき表現特質を見出し、その生成と変容を表現史的に解明する。豊かな表現の可能性を、黎明期の文学的営為の中に追求した画期的評論。

そうなのだ、本書はこの「無人称の語り手」に着目し、その表現構造を分析する。その際、亀井氏は「表現の構造」を「認識の展開」として読むという一貫した方法を採っている。
無人称の語り手」とは、想像がつくかと思うけれど、たとえば二葉亭の『浮雲』などに見られる語り手だ。作中で、登場人物を観察しそれを報告している人物であるが、「私」なり「余」なりといった言葉で名乗るわけではない。登場人物を観察しているといっても、実際の作者のようにあらゆる場面を見たり聞いたりすることが可能でもない。直接登場人物たちと交流することはないし、物語の展開に参加しているわけでもない。そんな人物、それが「無人称の語り手」と呼んでいるものだ。いわば、登場人物と読み手(あるいは実際の作者)との間に位置するようなものだろうか。
この「無人称の語り手」の表現構造から、どのような認識で世界を語っているのかを理解し、その認識が登場人物の言動、また作者の構想のイデーにまで作用・反作用する動きを精緻に論じている。この分析は、強いて関連づけるのであれば、最近でいえば北田暁大のメディア論(ex.『<意味>への抗い』ISBN:4796702563)に近いと思う。そう、本書は狭義の文学研究(ある作品からある一つの意味を見出してこと足れりとするもの)とは、明確に一線が引かれたメディア論なのだ。
「内面」というものがいかにして現れてきたのか、同時期の柄谷行人にも同じ分析があるが、亀井氏のほうが説得力がある。ちなみに本書では、柄谷行人の『日本文学の起源』は、タイトルとはうらはらに、「起源」に対する不徹底な思考において批判されている。
以前に亀井氏の他の著書を読んだときにも思ったのだが、亀井氏がたとえばロトマンなりバフチンなりの理論を用いつつも、その理論にべったりと依存したりしないという点は見習いたい。私などは、思考の努力が足りないので、誰かの意見なり理論なりを愚直に当てはめて、それで分析は終わりとしてしまいがちなのだが、亀井氏はその先を思考する。つまり、既成の理論で分析では抜け落ちてしまうことを見逃さない。そこから独自の分析が始まっているのだ。そうして、自前の理論を作り出していこうとする。この研究姿勢は、今の私に一番必要なことだと思った。
今回読んでみて、面白かったのは樋口一葉の分析、あと視ることの権力性について述べていたところだ。「視ること」の持つ権力性は、蓮實重彦が評論のなかでしばしば述べていたが、亀井氏はそのことを認めつつ、さらに次のような指摘をした。

だが、客体として対象化されたものは、まさにそれ故にその視線を自分に惹きつけ、関心を奪い、その受動性によって視る人間の意識を支配してしまう。視られることの権力性、というあり方もありうるのである。視られることで、いわば視られ方を支配し、対象化されない側面を隠してしまおうとする。このような視線と対象との確執を、人間の原罪的な不幸と見たのが、先にふれた内村鑑三であった。(p.275)

この指摘などは、たとえば大澤真幸が触れることは同時に触れられることでもある、と述べていることなどを思いだす。視る側の権力と同時に視られる側の権力への注意は重要ではないか。フェミニズム、ポストコロニアリズムは、視る権力を問題にするが、視られる側は単に視られているだけだとナイーブに思いこんではならないのかもしれない。視られることで、支配を受けつつも、逆に視られていることを利用している可能性はないか。ここに注意を払わねばいけない。

感性の変革

感性の変革