高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』

高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』朝日新聞社、2005年1月
「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」、「唯物論者の恋」、「ウィンドウズ」、「小さな恋のメロディ」、「宿題」という5つの物語で構成されている。それぞれ独立した物語でもあるようだし、いくらか関連しているようでもある。とにかく、全体はタイトル通り「性」と「恋愛」が中心となっている。
「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」という章は、他の章にくらべてやや長いのだが、ここでは二人の人物の物語が平行して語られ、最後に二人が交錯することになる。
その登場人物は、「女にもてる」という「欲望」を持つ男「キムラサクヤ(本名スズキイチロー)」と、「「愛してる」とか「好きだよ」と言われながら性交」することを願う「マツシマナナヨ(本名ナカノレナ)」の二人である。
キムラサクヤにせよ、マツシマナナヨにしろ、その身体に特徴がある。それゆえに彼らの欲望/願望が達せられない。キムラサクヤの容貌は、「中の下」ぐらいと言われるが、決定的に問題なのは、「脂性」と身体が発する「臭い!」においだ。この二つの問題によって、女性が近寄ってこない。それどころか他者から避けられている人物になっている。
一方、マツシマナナヨは醜い顔をしている。目は細すぎる、鼻は低い、顔全体が膨らみすぎで、顎が割れている。まぶたも腫れていた。顔だけが問題なのではない。マツシマナナヨは肥っていた。しかも「固太り」であった。大柄で骨も太く、そこに肉の層が堆積していた。肌はざらつき、身体中に湿疹もできている。さらに、マツシマナナヨには「顔」や「身体」よりもさらに深刻な問題があった。

マツシマナナヨには、若さというか、精気というか、そういう「活き活きした」なにかが、つまり生命力が欠けていた。(p.47)

二人をここまで醜く描くのはどうしてなのだろう。醜い二人にとって、「恋愛」あるいは「性交」は可能なのか。そういうテーマなのだろうか。キムラサクヤのおぞましい体臭。マツシマナナヨの身体の汚らわしさ。これらから、思い出すのは「天人五衰」の物語だ。汚穢にみちた身体を持つ人間、キムラサクヤとマツシマナナヨ。この二人は地上に墜ちた「五衰」の人なのではないか。
この物語で、この二人以外に中心となるモチーフが女性雑誌だ。『JJ』『CanCam』『Oggi』『with』『25ans』などなどたくさんの女性雑誌の名前が登場している。そしてマツシマナナヨはさまざな女性雑誌を隅から隅まで熟読しているし、キムラサクヤは女性雑誌で「オナニー」をしたりする。物語は、「女性雑誌」に溢れている言説の夥しい引用がなされている。とりわけ、二人が愛読しているのが『JJ』である。
汚穢に満ちた身体の二人に比べて、女性雑誌のモデルは「美しすぎる」。キムラサクヤは、そう感じた。彼には、モデルはみんな同じような顔、身体に見えた。でも美しかった。また、モデルたちは「セックスの話をしない」ということにも気づく。まるで性器が存在しないかのようだとキムラサクヤは思う。彼女たちに「セックスついて訊いていいのだろうか」などと考え込んでしまうキムラサクヤであった。
醜い身体と「美しすぎる」身体が、こうして対立する。こうした対立から、すぐに広告批判、強いては資本主義への批判を読み取るのはワンパターンすぎる。高橋源一郎が、そんな単純な物語を書くとは思えない。では、この物語をどう読めばよいのだろう?。そう考えるとけっこう難しい。キムラサクヤとマツシマナナヨは、アダルトビデオに出演し、そして二人が「性交」することになるだろう。醜い二人が、アダルトビデオのなかで性交すること。そのことをどう意味づければよいのか。このへんがまだ解釈できない。
「女性雑誌」「アダルトビデオ」「恋愛」「性交」…。これらは「幻想」でまとめられる。そうすると、「幻想」と醜い身体という「現実」の対立の物語。これでもワンパターンの解釈だ。これ以外の読み解き方を探さなければ。

性交と恋愛にまつわるいくつかの物語

性交と恋愛にまつわるいくつかの物語