金子勝『セーフティーネットの政治経済学』

金子勝セーフティーネットの政治経済学』ちくま新書、1999年9月
現在主流経済学となっている新古典派経済学のような市場原理主義ではだめ。かといってケインジアンでもうまくいかない。「市場原理か政府介入か」「小さな政府か大きな政府か」「効率性か分配の公平性か」「競争か平等か」という二元論はもう役に立たない。これとは異なる道を行かねば。そこで、「セーフティーネット」を基盤として第三の道へ進まなければならないというわけだ。
不況がつづいているのも人々の「不安」があり、それが悪循環をもたらしている。人々の「不安」を取り除き、人々の相互信頼が回復できるような政策を実行しようということで、本書ではさまざまな提言がなされている。
一つ興味深いのは、「能力開発バウチャー」についての話。これは1960年代のアメリカで行われた職業訓練政策を模倣したものだが、当のアメリカでも批判があった。いくら職業訓練をほどこしても黒人の失業率は変化しなかったのだという。したがって、アメリカの政策をただ導入してもダメなのだ、著者は批判する。

それを日本の状況に置き換えてみれば、最初にリストラに遭うのは黒人ではなく中高年層である。かりに彼らに対して国の補助で「能力開発バウチャー」を与えて、わずかの職業訓練を与えても、企業はその中高年を雇うことはないだろう。こうした雇用流動化政策は人々に幻想を与えながら、雇用リストラをしやすい環境を整えるだけで、雇用不安をあおるだけである。(p.174)

ここでは中高年が議論のターゲットになっている。雇用の問題は、若年者の立場からするとまた違った見方ができるわけで、そのあたりは玄田有史の本が有名だし、もちろん『カーニヴァル化する社会』のなかでも取り上げられていた。若者が犠牲になっているのか。中高年が犠牲になっているのか。いいや、女性が犠牲になっているのだ等々。視点を変えれば、いくらでも問題が見えてくる。でも、そうやって各階層なり年代、あるいはジェンダーを分断してしまうのもまずいような気がする。中高年が犠牲だ、いや若者だと、どっちがより悲惨なのかという争いを始めてしまっては、事の本質を取り逃がしてしまうのではないか。
どうすればいいか、私にはアイデアはないけど、とりあえずは内部争いをして利益の取り合いをしない方向に行けばいいなあと思う。

セーフティーネットの政治経済学 (ちくま新書)

セーフティーネットの政治経済学 (ちくま新書)