今村仁司『マルクス入門』

今村仁司マルクス入門』ちくま新書、2005年5月
マルクスファンならば必読。今やマルクスは社会科学だけでなく、人文系でも必須の教養なのだから、マルクスの著作は実際に読まなくても、こうしたすぐれた入門書を読んでおくことは必要なのだ。
本書は、導入部において、これまでのマルクス像をコンパクトに紹介し、その上で著者のマルクス読解を示していく。これまでのマルクス、そしてこれからのマルクスを論じており、この本をきっかけにマルクスの魅力を再発見することができるようになっている。
本書のマルクス読解は、まずはじめにマルクスの精神的故郷をたどる。マルクスの精神的故郷であり、理想郷はギリシャである。ギリシャが故郷となるのは、マルクスに限らず、西洋の知識人にはしばしば見いだせることだと思うが、そもそも古代ギリシャ哲学の研究からマルクスが出発していることの意味は大きい。
ギリシャから出発したマルクスは、古代ギリシャのポリス共同体を現在に活かす方向を考える始める。ここで登場するのが、「分裂なき共同体」というものだ。これは、個々人は自由に活動していても、それ自体が普遍的なものとなっている状態。つまり、自分自身のための行為が、万人のための行為となっている、そんな状態のことなのだろうか。ともかく、マルクスにとっては古代ギリシャを「高次のレベル」で復活させることが重要になる。
それから、本書は文明史としての資本主義の研究、マルクスの歴史哲学、時間論などが説明される。このあたりの議論もとても興味深い。特に、私はマルクスの歴史哲学などは非常に参考になる。マルクスの歴史哲学は、そもそもはヘーゲル哲学内にあるものだが、ヘーゲルの「止揚」を受け継ぎ、そこから形態分析を行う。
「形態分析」つまり、具体的な姿を消去したあとに残った抽象化された「形態」は過去のエッセンス(過去そのままではなく)を教えてくれる。なぜなら、「歴史過程は、人間的行動による変形的否定と「止揚」を含み、「止揚」は結果としての事実のなかに過去の経験を否定・保存・昇華する」からなのだ。形態のなかに、過去の歴史が「変形」され「保存」されているという考え方、これは現代でもけっこう受け継がれているものではないか。これはベンヤミンがおこなったことであろうし、たとえば貨幣を言語に置き換えてみれば、これはたとえば表象文化論がよくやる表象と歴史あるいは記憶という研究になるだろう。その意味でも、マルクスの歴史哲学、歴史認識はもう一度復習しておかねばなるまい。
本書の最後、第5章ではマルクスの思考体質が論じられている。これがまた面白い。著者は、マルクスの思考体質は微細な差異を感受し分析する繊細な精神(p.208)だと指摘している。マルクスは「顕微鏡」という比喩を好むが、マルクスの思考はこの「顕微鏡」的観察に特徴があるというわけだ。
この章を読んで、マルクスに関して私が気になっていたことの一つが解決した。私が気になっていたこととは、マルクスはしばしば先行研究や他人の思想を、かなり激しい調子で批判する。ぼろくそに他人を批判するマルクスというのが、私は好きだった。これは、単にマルクスの癖というか性格にすぎない、あるいは一種の芸だと考えていた。しかし、本書を読むとそう簡単なものではないらしい。マルクスの罵倒は、マルクスの思想にとって必要不可欠なものだったのだ。
どういうことか。まず、経済学批判はマルクス特有の科学的叙述だという。それは、事象のなかにある形態上の差異を徹底的に洗い出すであろう。この差異の洗い出しであるが、マルクスは外部から観察して記述するのではない。マルクスは、事象についての先行学説を批判するのだ。事象は、先行する学者によって抽象化されている。そこに先行者の歪みがあるとしても、これは学問の歴史的産物だ。
マルクスにとって、「商品」や「貨幣」や「資本」といった言葉ですら、すでに抽象化されたものとなっている。だから批判を行わなければならない。批判はその時々の学説を批判することではない。それは科学的認識にとって必要なことであった。科学的認識とは批判的認識である、という。
批判が必要な理由は、こういうことだ。社会的人間が事象と関わるとき、そこには想像的イメージ、「イデオロギー的」認識がつねに前提となっている。どんなに洗練された科学的知識ですら、想像による歪みは免れない。事象にせよ、現実と言い換えても、人間が関与する限り、そこには「精神的な要素」、「想像的=神話的」な要素を内在的構成部分として含むのだ(p.220)。それゆえに、批判がそれこそ罵倒にちかい激烈な言葉で批判をする必要があったのだ。必要というか、先行者イデオロギー批判をしなければ研究できない。罵倒はもちろんマルクス自身も含まれているという。
マルクスの著作に見られる罵倒が、単なる話芸、言葉遊びなのではなく、思想上必要不可欠な理由があったことを知って面白かった。ますます、マルクスに魅力を感じてしまった。

マルクス入門 (ちくま新書)

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