舞城王太郎『阿修羅ガール』

舞城王太郎阿修羅ガール新潮文庫、2005年5月
別に自分のことを道徳的だとか清潔な人間だと思わないけれど、舞城王太郎の小説は苦手だ。ことに、この『阿修羅ガール』は途中で気分が悪くなってきた。この本には「川を泳いで渡る蛇」という短篇も収録されているけれど、こちらは文芸雑誌によくあるような小説で、なんだ舞城も「普通」の小説もきちんと書けるのかと感じる。
それはともかく、「阿修羅ガール」である。

 ウンコパン三世。ウンコパ〜ン、デ、デレッデ。ウンコちゃ〜ん。や〜ねウンコパン駄目よウフフこんなところで。うっしっしっしっし。もうた〜まらないのよウンコちゃ〜ん。駄目〜ん。待て待て待て待てウンコパ〜ン!い〜けねまたウンコのとっつぁんだ。ウフフまたねウンコパ〜ン。あ、ち〜きしょうウンコの野郎ま〜た裏切りやがったな。おいウンコパンやばいぞ。いけねえ逃げるぞウンコ次元。あれ、ウンコ五エ門どこだ。やつぁとっくに逃げたよ。もう逃げ足速いんだからなあ、武士のくせに。(p.276)

グルグル魔人の章の冒頭部分。グルグル魔人こと英雄の言葉なのだが、どうもこういう所が苦手だ。幼稚だからというのもあるし、下品だから。グルグル魔人に箇所を読みながら、ラブレーを思いだしていたのだけど、たとえばラブレーの作品をその同時代に読んでいた読者は、私が舞城の作品を読んだときと同じように、下品だなとか気持ち悪いなとか感じていたのだろうか。それとも、現在と価値観が違うから、そんなことを思わなかったのだろうか。
一度、舞城の小説はダメな小説であると仮定して、何がダメなのか考えてみた方がいいのかな。「良いかもしれないけど、私には苦手」という曖昧などっちつかずの態度をしているから、まともに批評することができないのだ。舞城を批評するために、私は舞城の作品はダメな作品であるというポジションから読む必要がある。そうすれば、私にとって「小説」とは、「文学」とは何かという問題に答えられるかもしれない。自分の文学観が見えてくるかもしれない。

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)