セディク・バルマク『アフガン零年』

◆『アフガン零年』監督:セディク・バルマク/2003年/アフガニスタン・日本・アイルランド/82分
タリバン政権時代のアフガニスタンを舞台に、抑圧と貧困のなかで生き抜こうとする少女とその家族を描いている。
私のアフガニスタンに関する知識不足というのも原因なのかもしれないが、理解不能な他者として、この映画が現れていた。見ていて、ほんとにつらい気持になるのだが、それは単に描かれた物語の悲惨さや理不尽さな暴力というものだけが原因ではない。この現実をどう受け入れたらよいのかということも考えるのだが、それよりなによりこの映画で描かれたアフガニスタンの状況が、再びどこかの世界に現れたとき、わたしは一体どうすればよいのかが分からないのだ。
もっと根本的な問題として、自分と異なる「文化」が自分の目からみると「野蛮」なものと映るとき、それを「野蛮」だと批判してもよいのか、あるいは批判することができるのかということを、映画の上映中に考えていたのだ。要するにこれは文化相対主義とか、そんなところの問題になるだろうか。映画を見ていてつらかったというのは、このへんの問題について、今の自分には明確な答えが分かっていなかったからだろう。
さて、いくつか気になる場面があったので、簡単にメモしておきたい。映画の冒頭で、女性たちがタリバン政権に対するデモをおこなっているのだが、このデモに対してタリバンは放水をして女性たちを追いはらう。この時、タリバンに捕えられた女性たちは、連行されて檻のなかに入れられる。その時、檻に鍵が掛けられる。「鍵」というのは、映画中では、このように閉じこめられた女性たちを象徴している。物語の最後で、何人もの女性を連れてきて、結婚している男が出てくるが、この男の家の扉に、ものすごい大きな頑丈な鍵をかけている。というか、鍵は丈夫でも扉が木製なのだから、扉そのものを壊してしまえばいいのではないか、などど思ったりもする。ともかく、女性と鍵は、密接な関係にあることは間違いない。
冒頭の場面に戻ると、ここで女性たちが水によって追いはらわれるというのも見逃せない。水と女性の相性が、極めて良くない。水もまた、女性たちを閉じこめる。水は女性の身体を覆っているヴェールのようなものなのだ。
たとえば、主人公の少女が、生きるために男の子に変装して、ミルク屋で働いている場面がある。ここで、気がつくには、沸騰したミルクによる蒸気が少女を覆っていることだ。蒸気はガラスを曇らせ、その曇ったガラスに少女は、女の子の絵をひそかに描く。水による覆いを、取り除くささやかな抵抗のように。
しかし、水は彼女を容赦な苦しめる。少女はタリバンにつかまり、他の子どもたちと学校のようなところに連れて行かれ、タリバンの教育を受けることになる。当然、ここは男の子しかいないわけで、もし女の子であることがタリバンに知られると危ない状況だ。
ここで、男の子に夢精をしたときに、身体を清める方法が教育される。この教育は風呂でなされるのだ。そこでは、腰に布を巻いた男の子たちが、身体を清める方法を教えられる。当然少女はけがをしているという理由で風呂に入らなかった。しかし、先生に見つかり、風呂に入らせられてしまう。風呂に入った少女を見て、先生はまるで彼女を天使のような少年だとつぶやく。天使ようなとは、少女のような少年だということだ。これをきっかけに、少女は他の子どもたちから、女の子ではないかという疑いをかけられるようになり、やがてタリバンに女の子であることがばれてしまうのだから、やはり水が女性を生命の危機に陥らせていることは確かであろう。
水というのは、女性的なものであることが多い。ということは、同性同士であることの反発が、こうした水の物語を生むのだろうか。

アフガン零年 [DVD]

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