田中康夫『なんとなく、クリスタル』

田中康夫『なんとなく、クリスタル』新潮文庫、1985年12月
これって、ミリオン・セラーになった本だというが、いったい何がそれほど読者を惹きつけたのだろう?。あとがきで、作者自身があっという間に初版が売り切れたこと、発表当時に取材が殺到したことを記している。不思議だ。
当時の若者のライフスタイルを描いたからか。ページの半分を埋める注釈の面白さだろうか?。たしかに注釈のツッコミは面白かった(けど、嫌味っていえば嫌味)。
物語自体は、まったく面白くない。やっぱり注釈が面白かったのだろうなあ。それと、ブランド名の陳列だろうなあ。ブランド名つまり記号を作中に夥しく陳列し、そこに注釈という形で意味づけしていく。ブランドをこのような形で批評する「語り手」を、この小説は見せたかったのだろう。この物語の登場人物は、そのブランド名を記号を陳列するために装置にすぎない。つまり主人公が「由利」である必要はない。誰でも良い、置き換えが可能な人物たちなのだ。
面白いのは、時折登場人物が、自分たちは「本」を読まないことを強調するように語っていることだ。「本」を読むことに、コンプレックスでもあるのだろうか。「本」を読むことに対し、皮肉をぶつける。「本」を読まないことをアイデンティティにしている。また注釈の語り手も注の309で「いくら、本を読んでいたって、自分自身の考え方を確立できない頭の曇った人が一杯いますもの。本なんて、無理に読むことないですよ。」(p.125)と述べている。それにしては、「由利」はけっこう本を読んでいて、現代なら読書家の大学生として見られそう。
物語の細部では、けっこうアイデンティティについて考えたり、「本」に対してコンプレックスを持っているのだから、この登場人物たちは無理しているのだろうか。無理して「クリスタル」な生活を送っているのではないだろうか。本当は記号に戯れている生活なんてできないくせに。この小説の人物たちは、至ってありふれた「純文学」の登場人物なのだろう。だけど、その部分を隠そうとしている。その理由はなんとなく想像がつくが。とにかく、そうやって「純文学」と「差異」を作ろうとする作者の意図を想像することもできそう。実際は、ありふれた日本の「私小説」とあまり変わらないものだと、私は思うが。

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)