バフチン『ミハイル・バフチン全著作集第二巻』

◆P・N・メドヴェージェフ、V・N・ヴォローシノフ(磯谷孝・佐々木寛訳)『ミハイル・バフチン全著作集第二巻[フロイト主義][文芸学の形式的方法]他』水声社、2005年1月
この巻には、タイトルにある二作のほかに、メドヴェージェフ「学問のサリエーリ主義」が収められている。1920年代のバフチンサークル時代のものだ。
フロイト主義」は、フロイト批判。そして「文芸学の形式的方法」はフォルマリスムの批判となっている。両方とも面白い論文だった。バフチンの基本的な考え方が、この二作品を読むと分かる。バフチン入門として格好の本だと、私は思っている。
ところでバフチンという人は、反論上手な人だと思う。上手というか、超一流の反論のテクニシャンではないか、と最近思うようになってきた。バフチンの著作をいくつか読んでみると気がつくのだが、基本的にバフチンはある主張なりイデオロギーに対して、批判を加えながら自説を述べるというスタイルを取っている。こうしたスタイルに、バフチンの対話理論を見るのは容易なことだろう。
たとえば、代表作の『ドストエフスキー詩学』を見てみるとよい。この論文の第一章は、いわゆる先行研究のレビューだ。それまでのドストエフスキーについての、あるいはドストエフスキーポリフォニーに関する先行研究をバフチンが詳細に検討している。先行研究との「対話」を通じて、これから自分が論じる問題を見事なくらい上手に浮かび上がらせている。この論文の書き方は、はっきりいってすごい。私自身、正直、先行研究のレビューがものすごく下手なので、バフチンのように相手を批判しながら、自分の言いたいことにそれを結びつけていくという書き方がうまくできない。いつも論文を書くときに、ひどく悩んでいたので、バフチンの本を読むたびに感心していたのだ。『ドストエフスキー詩学』の第一章の部分は、特に好きな箇所だ。この箇所は、何度も何度も読んでぜひともテクニックを身につけたい。
さて、「文芸学の形式的方法」だが、この中でバフチンは言葉の物質的要素とその意味を結びつけているのは、「社会的評価」なのだということを強調している。
バフチンは、言葉を具体的な発話から切り離してしまうこと言語学を批判の対象としている。バフチンにとって、「辞書的な言葉」なんて認められない。あくまで「具体的な発話」が重要なのである。そして、「具体的な発話」というのは社会的な行為なのである。したがって、発話というのは交通状態に組みこまれているもので、だからこと「歴史的現象の現実」であると主張している。発話の社会性、歴史性、個別性というものをバフチンは重要視するわけなのだ。
こうして、言葉という記号は、発話という歴史的な現象のなかで、意味と融合することになる。そしてこの融合もまた歴史であることが言われ、発話を社会的交通から切り離し、単なる物扱いしたり、また言語学者のように具体的で歴史的な発話から抽象してしまうと、言葉は「歴史的にいまだ個性化されない、単なる可能性にすぎない意味をさす副次的な記号」に変わってしまう。ここでバフチンは「社会的評価」を次のように述べる。

 発話の個別的現存とその意味の一般性、十全性とを統合するもの、意味を個別化し具体化するもの、そして言葉のいまとここの音響的現存を意味づけるものとしてのこの歴史的アクチュアリーこそ、われわれが社会的評価と呼ぶものなのである。(p.423−424)

このような「社会的評価」が、内容の選択、形式の選択、はたまた形式と内容の結びつきも決めるのだと言う。そういうわけで、発話を理解するには、その発話をとりまく価値的雰囲気に慣れ親しみ、イデオロギー環境のなかで発話がおこなる価値づけの方向を理解しなくてないけない。つまり、発話を理解するというのは辞書的な一般的な意味を理解するのとは全く異なるのだ。「発話を理解するとは、発話をその同時代性とわれわれの同時代性のコンテキスト(両者が一致しないときには)で理解することである(p.424)」。
このような考えを覚えておくと、バフチンの思想が理解しやすくなるのだろうなあと思う。比較文学の分野でもバフチンは注目されている。その理由は、ここに引いたように、バフチンが単に言葉の意味を理解するのではなく、言葉を取り巻くコンテキストの理解を重要視しており、その点が比較文学の精読という方法と相通じるためだからだろう。

ミハイル・バフチン全著作〈第2巻〉「フロイト主義」「文芸学の形式的方法」他―一九二〇年代後半のバフチン・サークルの著作〈1〉

ミハイル・バフチン全著作〈第2巻〉「フロイト主義」「文芸学の形式的方法」他―一九二〇年代後半のバフチン・サークルの著作〈1〉