阿部和重『シンセミア(下)』

阿部和重シンセミア(下)』朝日新聞社、2003年10月
やっぱり面白いとしか言いようがない。どのようにこの小説の面白さを説明したらよいのだろう。
登場人物が多数いるように、この物語の主題もいくつも出てくる。性、権力、暴力、アメリカ、天皇、オカルト、共同体と個人、監視社会、インターネット…。どの主題から読んでみても、きっと興味深い解釈ができそうだ。
印象的なのは、登場人物が多数いるにもかかわらず、どの人物の「内面」もくわしく描かれているということだ。この小説が、大長編小説となったのも、それが原因だろう。「内面」が露出してしまっているというべきか。もちろんこの「内面」は読者だけが知る得ることであり、登場人物同士、お互いに何を考えていたり企んでいたりしているのか分からない。したがってゲーム論的な駆け引きが、多数の登場人物の間で行われることになるのだ。
またすでに指摘があるのだろうが、同じくある一つの土地を舞台にしたサーガということでは、中上健次をどうしても参照・比較したくなる。特に、「隈元光博」なる氏素性のはっきりしない人物は、たとえば中上の小説の「秋幸」であったりあるいは、「秋幸」の父である「浜村龍造」のようになる可能性もあったのではないだろうか。隈元光博は背の高い、非常に大きな体格をしているという身体的な特徴もまた、龍造−秋幸の系譜に連なる。そして、光博は田宮明と対決することになるのだが、そのとき発する次のような言葉もきわめて重要だろう。

「お前の娘はな、厭んなるくらい俺とハメまくったんだよ、お父さん!だからもう、あんたと俺は、赤の他人じゃないんだよ、お父さん!これは否定できない事実なんだよ、お父さん!あんたはな、俺のお父さんでもあるんだよ!そうなんだよお父さん!あんたは、俺のお父さんなんだよ!アハハハ……」(p.382)

何度も何度も「お父さん」という言葉が、光博から発せられている。素直に読めば、ここで「父殺し」の主題が鮮明に浮かび上がってくる。中上的な物語にこうして接近することになるだろう。
この物語では、たくさんの事件が同時多発的に生じる。終章でそうした様々な出来事の真相が「星谷影生」なる胡散臭い人物によって、一つの物語となってフリージャーナリストに語り伝えられる。これが阿部和重的な結末だなと思う。19世紀の小説にのような全知の語り手(=神の視点からの語り)による真相告白であれば、読者はすべてを読み終えた後に「事件の真相が理解できた」という気持になる。が、ここの語り手はいじわるなのか、自分では「真相」を語らず、神町を守っているというこの怪しげな人物「星谷影生」に語らせる。神町の歴史から、隈元光博の謎についてまで。たしかに、影生の語る話は事件のつじつまにぴったりとあう。だが、影生に信用がおけないがゆえに、別の「真相」があるのではないかという可能性を同時に含ませている。阿部和重は、物語を信用しているのだろうか。もちろん、物語が一つの結末に決着することに常に抗っているのが阿部和重という作家だと思う。そうした意味で、反=物語の作家なのだろう。とりあえず、そんなことが言えるのかもしれない。

シンセミア(下)

シンセミア(下)