三島由紀夫『小説家の休暇』

三島由紀夫『小説家の休暇』新潮文庫、1982年1月
エッセイ集・評論集。文庫本の解説の田中美代子は、「三島由紀夫の批評は、ともすればその華やかな作家活動の蔭にかくれ、第二義的なジャンルのようにみなされがちであるが、折りにふれて発表された評論やエッセイは夥しい数にのぼり、思索の結晶体ともいうべきそれらの文章は、さながら散乱した無数の宝石のように、まばゆく燦然としている」(p.298)と書いている。私もそのとおりだと思う。三島の評論は、今読んでも面白い。
「日本文学小史」という三島による文学史で、三島ははじめにこの文学史の方法論を述べている。そのなかで、三島はかつては民俗学を愛したが、いまでは「そこしれぬ不気味な不健全なもの」を嗅ぎ取ったので、民俗学から遠ざかったと書いている。とは言うものの、この「不気味な不健全なもの」はまた「芸術の原質」であり「素材」だともいう。そして、作品によって「不気味な不健全なもの」から癒されると。それなのに、民俗学精神分析学は、ふたたび「病気のところへまでわれわれを連れ戻し、ぶり返させてみせてくれる」(p.230)といい、このような種明かしを喜ぶ観客もいると述べる。このように深層へ下りていく民俗学精神分析を三島は嫌う。無意識よりも「意志」のほうが三島にとっては重要であった。
三島は、われわれ二十世紀の人間が、「奥底にあるものをつかみ出す」という思考法に慣れきっていると指摘する。この指摘は、三島が二十世紀という時代をよく理解していたことを示している。つづけて三島は、目に見えるままのものは信じないということから、「視覚を本質とする古典主義は人気を失った」が、その一方で「形の表面を介してしか魅惑されないというわれわれの官能的傾向は頑固に生きのびており、それが依然として「美」を決定するから厄介」(p.226)だと言う。これはもう表層批評なのではないかと眩暈がしてしまう。
文学史は言葉である。言葉だけである。」(p.227)と三島は強調するのだから、ますます興味深い。思想や感情を探り出すのではなく、言葉そのものを批評の対象にするる。そのような文学史を構想している。

文学史は、言葉が単なる意味伝達を越えて、現在のわれわれにも、ある形、ある美、ある更新可能な体験の質、を与えてくれないことにははじまらない。(p.227)

小説家の休暇 (新潮文庫)

小説家の休暇 (新潮文庫)