ウォン・カーウァイ『2046』

◆『2046』監督:ウォン・カーウァイ/2004年/香港・中国・フランス・日本/シネマスコープ/130分
正直、感想を書くのは難しい映画だ。というのも、私がこの映画をきちんと把握できたという自信がないからで、そのために最近はあまり買うことのないパンフレットを買ってしまった。誰かの解説でも読まないと、この映画について語るのは難しい。
とりあえず、一言で私の感想をまとめると「重い」ということになる。これまでのウォン・カーウァイの映画では、味わったことのない感覚だと思う。なので、あくまで印象論だけど、この映画は見ていて辛くて仕方がない。とくにチャン・ツィイー演じるバイ・リンはつらい役だなあと思う。一番、感情移入しやすい人物ではあるからかもしれないが。
気が付いたことを2、3点メモ風に書いてみたい。一つは、この映画の中心となる主題は「涙」あるいは「水滴」であると思う。主要な登場人物は、ほぼ「涙」を流しているということからも言えるけれど、声を上げて「泣く」のではなく、頬を流れる「涙」であることが重要で、私が先にこの映画は「重い」と感じたのも、あらゆる感情がこの一滴の「涙」に集約されてしまうからだ。
「水滴」ということでは、フェイ・ウォンが演じるジンウェンがチャウに小説の感想を聞く場面で、水道から一滴の水滴がぽたっととこぼれるのも印象的。この映画は、「涙」あるいは「水滴」が主題なのだ、ということをわざわざ親切に示してくれているように思う。
したがって、「水滴」に似たものについ目がいってしまうのだが、たとえば女性であれば、それはアクセサリーとなって身につけているだろう。たとえばチャン・ツィイーの身につけるアクセサリーは、だいたい「水滴」なるものと言ってよいのではないか。なんとなく「水滴」に見えてきてしまう。象徴的なのは、ラストシーンで、チャウが階段を下りてバイ・リンのもとを去っていく場面だろう。ここではバイ・リンが精一杯の力でチャウの手を握りしめているのだが、その手をチャウが解いて立ち去る。ここでチャウが階段を下りていくというのも、ウォン・カーウァイらしいといえるのだが*1、それよりもこの映画では、画面にバイ・リンの手がクロース・アップされ、その指には大きな指輪があったと思う。その形は、おそらく「水滴」に似ていたのではないか。それはある意味「涙」ともいえるだろう。このように、「水滴」なるものにウォン・カーウァイは、いろいろなものを詰め込もうとするのだ。その詰め込まれた「重さ」に「水滴」なるものは耐えられず、それは「涙」となって頬をつたわるわけだし、水道の蛇口からぽたりと落ちていくだろう。
おそらくこうした映像は、ウォン・カーウァイにとって新しいものなのではないか。これまでは、「雨」というものが、似たような役割を果たしてきており、本作でも「雨」のシーンは何度かあった(おそらく3回か4回)。「雨」の場合一滴ということはないので、この水に「重さ」を感じることはない。一滴の水滴と「雨」では、それらが担う重さに格段の差がある。これは、ウォン・カーウァイの「水」の表現がさらに洗練されたことを意味するのだろうか。それとも、通俗に落ちたのか。いまのところ判断がつかない。
その「涙」と関連するところでいえば、コン・リー演じるスー・リーチェンも印象的だ。スー・リーチェンという人物それ自体が、重要な役柄であるのだが、やはりチャウとの別れの場面において、壁に背をもたらせながら、「涙」を流していたように思う(記憶違いかな?)。ここは、「涙」というより「壁」のほうが重要で、『花様年華』のマギー・チャンもしばしば壁にもたれていたように思う。つまり、スー・リーチェンは壁にもたれていなければ、立っていられない人物なのではないか。
それにしても、この映画はシネマスコープで撮られているにもかかわらず、ウォン・カーウァイは、しばしば画面の半分を壁や扉や看板で覆ってしまう。つまり、画面は半分に切られ、切られた半分の画面に登場人物たちは押し込められ、その狭い空間に存在しなければならない。この窮屈さはなんだろう。横長の画面を用いているのに、半分しか用いない。不経済といえば不経済このうえない映画なのだ。人物が存在できる空間が狭い、ということは必然的に一人でいることが多くなり、それは絶望的に孤独であることを印象づけるのではないか。空間の窮屈さは注目できる。
とくにフェイ・ウォンの動きを見ていると、たとえばタバコ吸っている箇所で、『天使の涙』の女エージェントのタバコの吸い方に似ている場面があった。ものすごくゆったりと、かすかに指が震えてながらタバコを吸う。そう考えると、この映画は実は『天使の涙』への意識もかなり強いのではないか。
これはパンフレットの川口敦子の映画評で触れていることだが、映画中に「天人五衰」なんていう言葉が出て、私はドキッとした。これは、もちろん三島由紀夫の『天人五衰』と繋がるのかもしれない。ウォン・カーウァイが、三島の『天人五衰』を読んだのかどうかは知らないが。川口が指摘する通り、『天人五衰』もこの『2046』も「記憶」が鍵となっているところで通底してしまう。三島ファンの私としては、こんなところで繋がって欲しくないので、これは偶然の一致だと信じたいところなのだが、本当のところどうなのだろう?。そもそも、しばしば言われるように、ウォン・カーウァイは三島よりも、もっとはっきりと村上春樹の影響を受けているのだし、本作でも頻出する登場人物たちのモノローグは、あいかわらず村上春樹風だ。それに、「どこでもない場所」というのは、『ノルウェイの森』の有名なラストシーンではないか!。これを忘れてはいけない。この映画は『ノルウェイの森』の影響が強いとも言える。
「2046」へ向かう近未来の列車は、これまでのウォン・カーウァイの映画に登場してきた「エスカレーター」に思えたのだが、これはやや強引な解釈か?
いちおう、この映画を見て、気が付いたことをだらだらと並べてみた。ほとんど戯れ言にしかならないのが悔しい。私には一回見ただけでは、この映画を理解するのは困難だ。今は、チャン・ツィイーが演じたバイ・リンの美しさにただ感動するばかりである。このバイ・リンという人物は、ほんと途中で死んでいてもおかしくないぐらいの人物で、見ていてその痛々しさに感情移入してしまう。『花様年華』のマギー・チャンとは異なるタイプの人物だと思うが、私のなかでは同じくらい深く印象に残った。

*1:なぜなら、男女の出会いあるいは別れは「階段」で起きるのだ