黒木和雄『父と暮せば』

◆『父と暮せば』監督:黒木和雄/2004年/日本/99分
原作は井上ひさし父と暮せば』。原爆をテーマにした映画で、父や友人を原爆で失い、一人生き残ってしまった娘。その娘のもとに父が現れるようになった。ちょうどその頃、娘はある青年と恋に落ちようとしていた。だが、娘は「自分は幸福になってはいけない」というある種の罪の意識を持っており、その恋を頑なに拒絶する。そんな娘を再び「生」の世界へ送り返すかのように、父が「応援団長」として、時に激しくまたやさしく娘を励ます…。というのが、本作品の物語だ。
黒木和雄監督は、『美しい夏キリシマ』でも戦争をテーマにして、『父と暮せば』のヒロインと同じような罪意識を抱えた人物を描いた。戦争体験を語ることの困難を描きつつ、それでも誰かがこの「歴史」を後の世代へと伝えていこう、というのがこうした映画の主要なテーマになっていると言えるのだろう。この映画は、この前に読んだ『ラディカル・オーラル・ヒストリー』の中の言葉でいえば「歴史する」という歴史実践の一つなのだ。
しかし、私はこうした問題は苦手なので、上記のことをわきまえつつ、この映画そのものについて思ったことをメモしてみたい。
きのう、ちょうど黒沢清監督のホラー映画を見ていたので、そのことと関連させてみたい。「戦争映画」と「ホラー映画」というジャンルの問題のことである。
「ホラーだ、ホラーだ」というのは、コッポラの『地獄の黙示録』だったと思うが、戦争映画とホラー映画はジャンルとしてかなり近い性質を持っていると思う。少なくとも話法のレベルでは、似ている。
私は、ホラー映画において重要な運動=記号に「振りかえる」というものがあると思う。登場人物が、何かの気配を感じて「振りかえる」という映像は、ホラー映画でしばしば目にすることであろう。振りかえると幽霊がいた!とかあるいは、誰かがいたようだけど、振り返ってみると誰もいない。「振りかえる」という運動は、ホラー映画にとって重要な主題であることは間違いない。
また「振りかえる」という主題を、映画のみならず文学まで含めて考えた場合、これは神話のレベルまで辿ることができる。たとえばオルフェウスの話などを思いだしてみれば良いと思う。思うに、生の世界と死の世界は「振りかえる」という運動によって結びつくのではないか。つまり、「振りかえる」という運動は生と死の境界であり、したがって生と死がテーマになるホラー映画で重要な運動=記号となるのだ。このことは、昨日見た黒沢清の「花子さん」で実感した。この作品では、主人公の少年が「振りかえる」ことによって、生の世界と死の世界(=花子さんの世界)が接続され、空間がはげしく歪んでいるようになるのだ。それが恐怖の表象となっていた。
そして、この『父と暮せば』ではどうか。これはもちろんホラー映画ではないので、幽霊であるはずの父はまるで普通の生活をしているように存在している。恐怖とはまったく無縁であり、演じた原田芳雄も「幽霊」であるとする演技など一切しない。だが、やはり父は「この世」にはいない人であり、それは急にふっと消える瞬間がたびたびこの映画に現れる。
では、「この世」と「あの世」すわなち生と死の境界がどう表象されのかといえば、やはりここでも「振りかえる」という運動=記号が登場するだろう。たしか二日目の場面だったと思うが、父がふっと消える場面があった。ここで娘を演じる宮沢りえが、「振りかえる」。すると先程までいた父の姿がなくなっている、というわけだ。「振りかえる」という運動によって生と死の境界が露わになった映像だと思う。
というわけで、たとえば振りかえると「花子さん」がいたということと、この作品では振りかえると父がいなくなっていた、という違いがあるにせよ、「振りかえる」という運動が生と死の境界上にあるという点では、両者は共通しているのだ。このことは映画のジャンルを考察する上で重要なことだと思うのだがどうだろうか。思いつきにすぎないが、たとえば「戦争映画」は「ホラー映画」のサブジャンルである、ということも言えるのではないか。異なる世界が、「振りかえる」という運動において、いとも簡単に接続してしまうというこの「荒唐無稽」さが映画なのだ、ということである。
この作品は、「振りかえる」という運動以外にも、カメラの運動が時空を超えた接続をもたらす*1ということも行っており、二つの異なる世界が簡単な運動で繋がってしまうという映画の性質をあらためて考えさせる。とても興味深い映画だった。

*1:ラストの場面のこと