侯孝賢『珈琲時光』
◆『珈琲時光』監督:侯孝賢/2003年/日本/103分
きょうは映画の日で1000円だったので、『珈琲時光』をもう一度見に行ってくる。以前見たときに書いた感想が、まちがっていないかどうか確認するためだ。感想は以前に見たときと同じで、全然退屈な映画ではないし、良くできた映画だと思う。何度も電車を見ている内に、電車がまるで生き物のように見えてくるから不思議だ。
電車といえば、この映画には印象的な場面が一つある。肇の乗った電車と陽子の乗った電車がすれ違い、そして平行に走る場面だ。この場面を改めて見て、思い出すのは小津の映画で人物が並んで歩く場面である。小津の映画では、人物が並んで歩くということだけでも、われわれの感性が揺さぶられる。侯孝賢はそれを電車を平行に並んで走る場面を撮ることで小津にオマージュが捧げたのではないか、と深読みしたくなるのだ。
したがって観客が、肇と陽子がおそらく一緒になるのだろうなあという予感をしても、それは単なる印象論ではないのではないかと思う。並んで走ったが故に、肇と陽子が最後に二人で同じ電車に乗り合わすことになり、電車の音を録音する肇の隣に陽子がいることになるのだ。もちろん、以前の日記で書いたように、陽子が「眠る」から肇がやって来るわけでもあるが。
陽子の居眠りが肇を呼び寄せる。これを『東京物語』と比較してみよう。『東京物語』では、広島へ帰る際に母(東山千栄子)が病で倒れる。そして、広島の家に着くなり危篤状態になる。つまり「眠っている」状態に陥ることになるが、それゆえに息子や娘は東京から駆けつけることになるのだ。そして、母のこの「眠り」はもう二度と覚めることがないだろう。ここで重要なのは、「眠る」ことが人を呼び寄せることだ。
一方で、『珈琲時光』においても、陽子が体調を崩し寝ていたり、電車のなかで居眠りをすることで、肇を呼び寄せることになっている。『東京物語』との違いは明白なので、あらためて指摘するのも野暮だが、一応比較してみよう。陽子の「眠り」は一時期的なものだし(「珈琲時光」というタイトルと繋がる)、妊娠という「生」の誕生と関わっている。それに対し『東京物語』の母親の「眠り」は「死」なのである。
「眠り」→人を呼び寄せる
両作品は、このような運動によって通底するのだが、その意味が正反対であることに注目したい。