浅田彰・島田雅彦『天使が通る』

◆『天使が通る』新潮文庫、1992年5月
もとは1988年に出た本。私は本格的に読書をし始めたのは大学に入ってからなので、1980年代から90年代前半に関する思想状況なんて全く知らず、今頃になってこの時期の本を読み返して新鮮な印象を受けている。
たとえば、浅田彰はこんな発言をしていた。

現代の日本のローティーンの子供というのはニーチェの言う「最後の人間」というのに近くて、つまりあらゆることはすでに終了していてデータ・バンクに入っており、それが引用されては組み替えられて反復されるだけだという、ほとんどニヒリズムの最終局面にきているわけです。(p.69−70)

これは、おそらく「クラインの壺」にたとえられる無限の循環運動としての資本主義がもたらすことなのだろう。「質的な価値を剥奪されたすべての要素が巨大な情報バンクの中に収められており、それがエンドレス・テープみたいになって永遠に廻り続ける。」そんな永劫回帰そのものが資本主義なのだ(p.83)。
資本主義はともかく(いや、私には良く分からないので)、データベース的消費云々という話は、すでに以前から語られていたことだったのだなと分かった。『動物化するポストモダン』を読んで、「動物化」とかデータベース的な消費は東浩紀のオリジナルなアイデアだと思って感心していたのだけど、根はこういうところから出てきていたのだなあと。だから、価値がないという話ではなくて。どうも比較文学をやっていると「源泉」探しについ向かってしまう。
でも、80年代から90年代の本を読んでいると、けっこう既視感を覚えるわけで。最近の評論の源は、だいたいあの時期にすでに書かれてあり、実は私たちはそこから一歩も進んでいないのではないかと思ってしまう。こういう言い方はもしかしたら正確ではないのかもしれないが、東浩紀北田暁大は、はたして浅田彰柄谷行人の呪縛から抜け出しているのだろうか。結局、現在の批評は浅田や柄谷の掌の上で右往左往しているだけなのではないかと反省したくなる。これは必ずしも浅田や柄谷に先見の明があったのだということを意味するわけではないが。とにかく、80年代から90年代はじめの本を読み直してみなければ、とあらためて思う。
ところで、私がこの本を古本で探して購入してまで読んだのは、三島について討論していたからだ。「ミシマ――模造を模造する」と題されたものである。
いろいろ面白い意見があって興味深い対談なのだが、一つ鋭いことが書かれてあって、私の勉強不足というは思慮の無さを痛感した。
浅田彰は注でこんなことを記している。

この対談に載った三島由紀夫特集(『新潮』一九八八年一月号)の時点で依然として、三島は本気で死んだのだ、「神」なき日本近代において逆説的に「神」を希求すべく最後の侵犯行為を行ったのだ、といった論調が見られた(たとえば富岡幸一郎「仮面の『神学』」)のには、率直にいって唖然とした。三島のなかにそういう意図がまったくなかったわけではないとしても、そんな単純な図式で割り切れる人間でないことは明白ではないか。三島をバタイユらと論ずるのも適当ではない。三島がバタイユよりはるかに小心であり、同時に、はるかに頭がいいことは、これまた明白ではないか。(p.201−202)

ついこの間、富岡幸一郎の本を読んだところなので、こういう見方があるのかと勉強になったが、私がそんな「単純な図式」に簡単に乗っかってしまって批評ができていなかったことも同時に分かった。自分の読む力、考える力の無さを思い知らされた。もっと疑うことが必要だったのだ。
本書の感想を記しておく。この本は、ダンテ、ニーチェフーコー三島由紀夫ヴェンダースの5人をテーマにした浅田と島田雅彦の対談である。率直にいって、島田雅彦の話はつまらないと思う。この前、『文學界』2004年11月号の「二枚舌のドストエフスキー」について日記に書いたが、この鼎談にも島田雅彦が参加していた。しかし、やはり面白いのは、沼野充義氏や亀山郁夫氏の話であって、そこに島田雅彦が口を挟むと途端に詰まらなくなるということがあった。『天使が通る』でも同じで、浅田彰が面白いことを言っても、島田が退屈な話をする、という感じだった。島田雅彦の話はどうしてこうも退屈なのだろうか?と気になってしまった。
一つは、無理をしている、背伸びをしすぎているのかなと思う。この人に『批評空間』的な言葉は合わないのだろうけど、どうも自分を『批評空間』的な「知」に合わせようとして、ひそかに必死に勉強していることが見えてしまうのだ。それにロシア語専攻だったことから、必死にロシア文学とかドストエフスキーを論じようとしているのもバタ臭い。どの発言も空回りしているというか。振る舞いがスノッブというか。意図的にスノッブを演じていれば、それはそれで文学者の芸になるのだろうけど、そんなふうに感じられない。本人は本気でドストエフスキー(あるいはロシア文学)を論じてる自分にうっとりしているように思える。それが痛々しい。

天使が通る

天使が通る