19世紀の諸問題

『新潮』2005年5月号の蓮實重彦浅田彰ゴダールストローブ=ユイレの新しさ」をコピーして読んでみた。ゴダールの新作『ノートル・ミュージック』、ストローブ=ユイレの『ルーブル美術館への訪問』が見てみたい。ゴダールは公開されたら絶対に見よう。
結局、我々依然として19世紀を乗り越えていないということらしい。20世紀ではない。19世紀だ。

事実、今の世界で起こっていることのほとんどが一九世紀の亡霊の仕業であり、それは一九世紀を十分に咀嚼し得なかった二〇世紀が支払うべき歴史へのツケだと思っています。(p.187)

その上で、ゴダールストローブ=ユイレは、徹底して19世紀にこだわっている作家だとする。ゆえに、「他にさきがけて二一世紀へと足を踏み入れている」と。
久しぶりに、中身の充実した対談を読んだ。ゴダールストローブ=ユイレの映画の話から、「見ること」の危機、表象の(不)可能性の議論や現代政治の話題へと拡がっていく。これを読んでいたら、たしかに本気で19世紀に一度取り組んでみないとダメだなと刺激を受ける。19世紀から学べることが残っている。
図書館に『批評理論入門』(中公新書)ISBN:4121017900、借りて読み始めた。「まえがき」の一節が気になる。

これまで多くの映画が競いあうように醜い怪物を作り出してきたが、いったん映像化されてしまうと、醜さもたかだかその程度ということにとどまってしまう。大方の観客は、それを観ても気を失わないし、映画館から「超人的」なスピードで飛び出したりしない。したがって、怪物の醜さは、読者の想像力に無限に訴えかけることのできる言語というメディアによってしか、表現することができないのである。(「まえがき」p.酈)

映画と文学の両方に興味がある私には、この一文は参考になる。しばしば映像と言葉は、具体性と抽象性の対立として捉えられている。ここでもフランケンシュタインの「醜さ」を言葉で記した場合、「醜い」という言葉を読んだ読者は、それぞれ自分のなかで「醜さ」を想像することになる。しかし、一方で映像ではどうにかして具体的に「醜い」姿を写すことになる。その具体性は、観客に一方的に「醜さ」を示してしまうので、観客の想像力の自由を奪う。
想像力の自由をめぐって、映像は言葉に対し決定的に不利だと我々は考えているのかもしれない。ここではそれゆえに、映像が言葉に劣っていると言いたいのではない。優劣の問題は関係ないし、その議論は水掛け論に終始するので、良い問いではないだろう。私自身、興味があるのは本当に映像は想像の自由を奪ってしまうのか、言葉の抽象性はわれわれの想像力を自由にしているのか、という点にある。その際、きちんと「自由」の中身を議論せねばならないだろう。
それにしても、作家には映画も撮ろうとする人も少なからずいる。映像が想像の自由を奪うかもしれないのに、それでも映画を作ろうとするのはなぜだろう。こう書きながら、私は今、三島由紀夫のことを念頭に置いているのだけど。たとえば「憂国」。なぜ、三島はそれを小説だけでなく、みずから映像化に奔走したのか。言葉と映像、想像力の自由について。三島のテクストに沿って考えてみなければいけない。