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富岡幸一郎『仮面の神学−三島由紀夫論−』構想社、1995年11月
私が理想とする三島論になかなか出会えない。三島研究は、三島の思想分析が多くて、作品を論じたものが少ない。大学の紀要などを探さないと作品論には出会えないのが、三島(研究)の不幸とも言える。
私の考えでは、三島自身は「三島由紀夫」という説話論的磁場から解放されたがっていた。身体に三島が魅せられたのは、ナルシシズムもあるのだろうが、身体こそ「身知らぬ」(市川浩)ものだったことをもっと注意したい。私たちにとって自分の身体(顔)こそ、未知なるものではなかったか。人は自分自身の目で自分の顔を直接見ることはできない。間接的にして私たちは自分の身体(顔)に接していないのだ。つまり、自分の身体の表面にこそ、自分の知らない「私」があるのだ。三島は、そんな未知なる「私」が、自分を解放してくれると思っていた。三島が映画に出演したり、写真集の被写体になったのは、おそらく、自分の身体に自身の知らない別の「私」を発見したかったからだ。『仮面の告白』で、主人公が子供のころ、活動写真を見て、扮装することに目覚めたことが語られているが、三島にとって映画や写真は、未知なる「私」に変装することだったのだろう。
私のこうした論もまた一つの物語にすぎないのだけど。

仮面の神学―三島由紀夫論

仮面の神学―三島由紀夫論