柳父章『翻訳語成立事情』

柳父章翻訳語成立事情』岩波新書、1982年4月
本書では、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という10の言葉を取り出し、これらが近代になって、翻訳のためにつくられた新造語であったり、もともと日本語の歴史のなかにあったが翻訳語として新たな意味を与えられたものであることを論じる。
いいか悪いかは別の問題として、ともかく私たちは「翻訳語」のおかげで学問や思想を学ぶことができた。だが、一方では日常生活と遊離した言葉であるのも事実で、それゆえに言葉の意味に混乱が生じている。著者は、しばしば翻訳語の「カセット(=宝石箱)効果」ということを指摘する。つまり、翻訳語は、なんだかよくわからないが、きらびやかでありがたそうな言葉に思えてしまう。翻訳語はなるほどたしかに翻訳を効果的に進めてきたかもしれないが、一方で一つの言葉を巡って混乱を生じさせてしまった。
「美」をめぐって三島由紀夫を論じてる箇所が興味深い。「美」とは三島文学の重要なキーワードであるが、著者によると三島は「二つの「美」」を使い分けているという。三島の「美」の語り方の一つは、「「美」について語る」こと。もう一つは「「美」に語らせる」ということだ。これは、たとえば評論で三島は積極的に「美」を語るが、小説では「美」に語らせるということになる。そして、三島は自分が「美」について語る場合は、「ほとんど軽蔑したような口調で、否定的」(p.79)であるが、たとえば『金閣寺』のような「美」に語らせる小説では、「美」の正体がよくわからない、「とてもだいじな、おそろしいような存在」とする。
どちらにしても、読者には「美」が何なのかわからない。わからないがゆえに、読者は「美」に惹かれてしまうというわけだ。三島は、翻訳語の「カセット効果」のうように、「美」という言葉を使い分けながら、「美」という言葉の与える効果を操作していたのだ。この指摘は面白かった。

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)