『物語消滅論』

大塚英志物語消滅論角川書店
大塚英志版「物語批判序説」という感じだろうか。この本は、語り下ろしという形式になっている。物語がイデオロギーと化しているというアイデアを伝えるには、この形式が良いだろうと判断したと「あとがき」で述べている。これまで大塚が主張してきたことを、あらためて復習するかのように語り、最後に物語のイデオロギー化について論じており、読みやすい本ではあるが、最後がやや大雑把な展開だったなあという印象を受けた。というか、蓮實信者には、物語批判なんてもうすでに20年まえから言われて言い尽くされてきたことなのではないか、という思いもする。
社会が物語化してしまった現在、ただ物語を批判するだけではだめで、むしろ逆に物語を徹底化することによって、物語の形態を人に知らしめる必要があるのではないか、ということが本書の主張なのかな?世界の構造はいまや物語なのだから、物語論によって物語の文法をあらためて身につける。物語論は文学に必要なのではなくて、社会批評に必要になった。物語は社会思想なのだから――。
物語と関係して、大塚がずっと批判してきたのは、「私」の存在、とくに近代文学において言文一致によって作られてきた近代的な「私」というものだ。近代文学では、「私」と書いた瞬間に屈託なく、自己表出が可能になると信じられてきた。こうした「私」のあり方を大塚は嫌う。「私」は仮構にすぎない。物語のシステムの一要素なのだ。
一方で、こうした近代的な「私」にかわってあらたに登場してきたのが、情報論的な「私」というもの。データベース的な「私」というのか、情報の集積として作れていく「私」がある。歴史や空間と繋がっている近代的な「私」と、時空から切り離されている情報論的な「私」という二重性を指摘していて、これは面白い視点だと思う。
とまあ、なんとかここまで感想を書いたのだけど、実はこの本における大塚のポジションがよく分からなかった。近代文学における「私」はもう耐用年数が切れていると批判しているのかなあと思うと、やっぱり「近代」をもう一度やりなおすべきなのだと述べていたり。危機管理として「文学」は必要なんだと述べていたり。どういう方向に進もうとしているのかが、この本では分からない。そもそも、どうして今、この本を書かなくてはならなかったのか。大塚にそうさせたものが何だったのか?どうもはっきりしない…