大塚英志『憲法力』

大塚英志憲法力−いかに政治のことばを取り戻すか−』角川書店、2005年7月
「「憲法力」とはまず何より「ことばの力」を信じることである」(p.237)というように、本書は「ことば」が重要視されている。憲法の前文を自分たちで書いてみようと薦めているのは、一人ひとりが「公民」=「有権者」として責任をもって政治を語り合い、パブリックなものを作り上げていこうとするためだ。個から出発していかにして公共へと至るか。これが重要なテーマとなる。

 柳田国男近代文学者として、それから民俗学者として構想しようとしていた公共性に至ることばの回路を、具体的に人々の内側に回復させていくツールとして憲法を考えること。「公共的なものとはこういうものである」と先に定義したり、でき合いの「公」に身を委ねるのではなく、「固有の私」を出発点に公共的なものを作っていく過程で、そこにコミットしていく思考の回路や能力のことを、ぼくは「憲法力」と呼びたいと思うのです。(p.42)

要するに、憲法の全文を書くという作業を通じて、憲法リテラシーを身につけようということなのだろう。
第一部で、「憲法力」について語り、「国民」であるまえに「公民」あるいは「有権者」であれと説き、第二部では「憲法力」を身につけるレッスンとして、いくつかの問題、たとえば「押しつけ憲法論」を越えるために憲法制定の過程を知ったり、英文の憲法前文を新たに訳してみたり、その際「主語」をどうするのかという難しい問題が語られる。第三部は、「憲法力」は「ことば」の問題であるとして論壇や文学についての論じられる。
憲法力」という言葉はともかく、政治を語ることばを身につけるレッスンが必要であることは大切だなと思う。また、「個」を出発点にして、パブリックなものの形成していく(p.81)という考え方が気になる。「個」から「公」へ。この時、大塚が近代文学柳田国男を使って説明していたのが印象的だった。中村真一郎は、日本の近代文学(というか自然主義の文学)は個人の告白に偏ってしまい、文学=「公」という考え方がおこらず、西欧のような本格小説が出来なかったことを述べていたが、これは柳田国男田山花袋を批判していたことと通じるのだろう。
大塚は、「近代文学とは一面において「共通語」を作る運動だったことを忘れてはいけない」(p.26)と書いているが、「公」としての文学の可能性が、どの時点でどのように埋もれていってしまったのか調べてみたいものだ(結局、自然主義文学批判となってしまうかもしれないが)。