ナショナリズムを再考すること

香山リカ『<私>の愛国心ちくま新書
先日の日記でも記したのだけど、しばしば大塚英志は、江藤淳論のなかでつぎのようなことを繰り返し言及している。

かつて、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』を江藤淳は手厳しく批判した。丸谷が戦後の日本を「ただなんとなく」「さうなつている」と形容したためである。ナショナルなものと「なんとなく」が結びつくこと、ナショナルなものと「なんとなく」が結びつくこと、ナショナルであることに対して屈託なく無邪気であることを、そのような「なんとなく」としてのナショナリズム、国家語りをただ強く嫌悪したのである。(『少女たちの「かわいい」天皇』角川文庫、p.63)

たしか、「歴史」というものは、「なんとなく」今のようになっているのではなくて、さまざまな要因が積み重なっていると江藤淳は考えていた、ということになるのだろうか。いま、こうなっているナショナルの「歴史」の意識が欠けているという批判、と私は理解した。
最近は、ナショナリズム批判の文脈で、ナショナリズムの「歴史」を分析されている。要するに、「なんとなく」ナショナリズムを批判するのではなくて、「歴史」を知ったうえで、批判をしようということになるだろうか。研究者としては、もっともな態度であると思う。
しかしながら、香山リカは、そうした「ナショナリズム再考」についても、一つだけ問題があると指摘していた。ここが興味深い。

ナショナリズムを語るためにはナショナリズムの歴史を学べ、という主張は、一見、いかにももっともなのだが、ひとつ問題があるとすれば、歴史はあくまで現在を起点として遡及的にしかふり返れない、ということだ。つまり現在という着地点は決まっているので、歴史物語の筋書きは、どうしても「だから、いまこうなっているのです」と現状の必然性をとりあえずにせよ、肯定する方向で書かれることになる、ということだ。(p.201)

はたして、歴史を語ることが「現在」という唯一な一点に収斂してしまうのか、そしてそれによって、「現在」が肯定されてしまうのか、ということは問われなければならないかもしれない。しかし、もし上記のような動きがあるとすれば、ナショナリズムについての言説を辿るという研究にも注意が必要であろう。
このような歴史からナショナリズムを考える「歴史認識派」にせよ、現実の国際政治を見ろという「リアリズム派」にせよ、結局、同じ結論にたどり着くと香山は言う。それは、両者とも行き着く先は、「日本に自立」であると。そして、そのためには「ナショナリズムをきちんと自覚し、改憲や軍備も必要に応じて行うべき、という体制強化の方向だ」(p.207)と批評している。

つまり、歴史を振り返りつつ考えても、歴史から切り離して現実を見わたしても、選択は保守化の方向に進むしかない、ということになっているのだ。(p.207)

ここまで、言い切ってしまって良いのかどうか判断に迷うところだ。香山リカは、ことさら騒ぎ立てしすぎているという批判もあるそうだが、どうだろうか?