映画とは「荒唐無稽」なのだ
◆蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』ちくま文庫、1990年12月
映画とは、そもそも「荒唐無稽」なものなのだ。その「荒唐無稽」に驚くこと、そして肯定し続けることが映画を見るということであるのだろう。
たとえば、映画の上映時間という「荒唐無稽」。だれも、映画の上映時間の根拠を正当化することはできない。ある映画が90分で終ったとして、それがなぜ91分でもなく、89分でもなく、90分なのか。ここに、絶対的な根拠を求めることができない。あまりにも自然に振る舞うこの映画の上映時間の存在に驚いてみること。
そんな上映時間の荒唐無稽な驚きの一つに、バット・ベティカーという映画監督がいて、たとえば1956年から58年にかけて取られた4本の西部劇、すなわち『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』『日没の決断』『ブキャナン再び馬に乗る』という映画が、どれも上映時間77分という事態がある。「一人の映画作家の四篇ものフィルムの長さが、それも連続的に同じであるという事態は、実際、驚くべき映画的な事件である(p.158)。」
荒唐無稽な映画。それは『駅馬車』にもある。この映画において、蓮實重彦がしばしば言及しているのは、クライマックスのインディアンの襲撃場面である。この場面における馬車の疾走する姿は非常に印象的であるが、この場面の感動を支えているのもまた「荒唐無稽」さなのだ。どういうことかと言うと、つまりこの場面で、インディアンたちは無数に矢を放っているのだが、それらが尽く疾走する馬に当らないのだ。この場面は、「まるで嘘のように馬だけは避けて通ったことで可能となったものである(p.268)。」
このように、映画はそもそもが「荒唐無稽」であり、それ以外の何ものでもない。私たちは、その「荒唐無稽」さを、ひたすら見つめ、そして肯定すること。蓮實重彦の映画批評とは、このような営みなのだろう。
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