自由そして「私」とは何か

大庭健『所有という神話』岩波書店所有という神話―市場経済の倫理学
「所有」とりわけ「私的所有」という概念を倫理学の立場から、批判的検討を加えている。立岩氏の本と同じテーマだ。立岩氏の文章は、くねくねと執拗に考察を加えていくので、よく咀嚼しながら読まないとすんなり頭に入ってこないが、一方大庭氏は『はじめての分析哲学』においてもそうだったけど、一気に自分の主張を提示してくれるので、議論は難解な内容でも読みやすい本だ。下手をするとただの解説書に終ってしまう危うさもあるが、大庭氏はそんなキャラクターではない。ここという場面では、自分の考えをきっちりと主張している。
大庭氏といえば、「人−間」(ジンカンと読めばいいのだろう)としての「私」という主張だろう。つまり「私」というものは、他者から孤立した存在でもなんでもなく、他者との関係性において相互に承認しあうことによって立ち現れてくるということだ。

私が私であるということは、他になきものとして再認的に同定して呼びかけてくる他者との関係において、束の間のココへと「与えられたもの(Gabe)」であると同時に、「課せられたもの(Aufgabe)」なのである。(p.244)

だから、他者との関係性から切り離された「私」などありえないし、そんな「私」というものはイデオロギーにすぎないのだろう。
しかしながら「私的所有」とは、そうした関係性とは無縁なこの「私」の「固有なもの」であり、それをこの「私」が排他的に用いることは何の問題もないだろうとなってしまう。

 近代的な自画像によれば、こうであった。まず私が、特定の誰として同定され再認されようとされまいと、没・関係的に存在し、その私が、私の特性を「所有」する。そして、私は、自己の所有を自由に用益した「貢献」に応じて……云々。(p.244)

ここに倫理学的に問題があるだろうと、大庭氏は議論していく。つまり、この本は、大庭氏の「人−間」としての「私」という考えを用いて、経済学、市場の問題あるいはリベラリズムの問題に切り込んでいくというものなのだ。
倫理学にも経済学にも門外漢の私には、とても勉強になる本なのだけど、専門家はこの本をどのように評価するのだろう。それが気になる。