均質化する風景

三浦展ファスト風土化する日本』洋泉社、2004年9月
北田暁大『広告都市・東京 その誕生と死』廣済堂出版、2002年11月
今、地方に行くとなぜか巨大な売り場を持った「ジャスコ」が現れるという。これは、地方に行けばよく見られるありふれた光景であると。
ファスト風土化する日本』で一番の読みどころは、地方と「ジャスコ」の関連を探った箇所ではないだろうか。地方は、都会とちがって車がないとけっこう不便だ。だから、郊外に広い駐車場を確保した、巨大なショッピングモールがここ数年現れた。車で買い物に来る、となると当然地元の人間以外もやってくる。よって、流動性が高まる。今、郊外で、犯罪が起きやすくなっているとするならば、そんな理由も考えられる。
それから、実は地方のほうがいま消費社会の傾向が強まっているという指摘も興味深い。実際、都会で生活している人よりも、地方で生活している人よりもリッチなんじゃないか、とたしかに思う。この話は、でも当然といえば当然で、東京よりも地方のほうが土地が安かったりして、地方のほうが生活費自体は安く済むだろう。となれば、あまったお金が、「ジャスコ」あたりに行くと。で、そこは、もう東京と品揃えは変わらない。だから、たくさん買い物をしているというわけだ。
地方が均質化して、多様性を失ってしまったという。今や、都会のほうが雑多な人間がいて、面白いらしい。
突然田んぼの真ん中に「都会」がやってきてしまった。したがって、地方に居ながら、都会を味わえるようになった。地方と都会の差がなくなる。地方と地方の差もなくなる。そういう事が今起きている、ということだろう。流行の言葉で言えば、地方が「動物化」している!と言えるのではないか。
そんなことを考えながら、『広告都市・東京』を読むと、二つの本が繋がってきて面白い。北田氏は、こんなことを書いている。

マクルーハンの言葉をサンプリングしつつ、あえて断言しよう。
唯一無比の渋谷性を背負った都市・渋谷は観光客向きの文化的幽霊としてならともかく、もう実在しない。どの郊外都市にもタワーレコードがあり、Q−frontがあり、公園通りがある。それは渋谷や池袋とまったく同じようにコスモポリタンだ。(p.170)

北田氏は、これを渋谷の「情報アーカイブ化」と呼んでいる。「この」渋谷は、もう必要ないのだ。渋谷的なるものは、わざわざ「この」渋谷に行かなくても、今や地方においても手に入るようになったのだから。
このように都市を平板化するまなざしに対し、「都市は本来、公共的な空間なのだ」「都市に埋もれている歴史的記憶を読み込め」「都市を取り戻せ」などという批判は通用しないと北田氏は言う。
実は、三浦氏は、まさに最後に「記憶」をもった「かけがえのない」都市、人と人の繋がりがある都市を作らなければと提案していた。この辺に、この2冊の本の違いが現れている。さて、どちらが有効なのか。私は、三浦氏のほうが、やや見通しが甘いのではないかと思うのだが…。
「郊外」の問題も、辿っていくと「アメリカ」に行き着いてしまう。そういうわけで、アメリカの郊外を分析した『サバービアの憂鬱』を読んでみたいのだが、これが今は手に入らず。つくづく残念なことだ。