藤原審爾『秋津温泉』

藤原審爾『秋津温泉』集英社文庫、1978年11月
吉田喜重の映画『秋津温泉』は、ヒロイン新子の激しい「情念」を描いたものだったが、原作のこの小説は映画のような激しさはなく、しっとりと落着いた静かな雰囲気のなかに、女性たちの秘めた情熱を描いている。
小説は、かなり私小説的だと思う。藤原審爾が自分の体験を描いたという意味の私小説ではなくて、一種のジャンルとしての私小説といった意味でだが。
文庫には、井伏鱒二の解説が収められている。これによると、藤原審爾は、この「秋津温泉」を戦争中の21歳の時に書き始めたという。21歳で書いた小説とは思えないほど老成しているというか、現代の目から見ると「おやじ」くさい視線の語り手だ。主人公の周作が、彼をとりまく女性たちを見る目が「いやらしい」。これも、時代のコードといえば言えるのかもしれない。
周作をとりまく女性たちとは、まず早くに両親を亡くした周作を育ててくれた伯母がいる。この伯母を見る視線もいやらしくて、近親相姦的な雰囲気をかもし出す。この伯母に連れられてやってきたのが秋津温泉で、ここで周作は同年代の女の子、直子と知り合う。周作も病弱な、言うなれば「お国のため」にならない貧弱な身体の持ち主だが、直子もまた病を抱えている。周作は物語中、終始この直子の影を追ってしまうことになる*1
それから、周作とつかず離れずの関係にあるのが、温泉旅館の女将の新子だ。映画は、小説に登場する伯母や直子を切って、新子と周作の物語に変えている。映画の新子は、小説に登場する女性たちを集約した存在であるという指摘もなされている。
病弱で、まともに働くこともできない周作だが、なぜかこれらの女性たちに好かれるのだからまったく不思議な物語なのだ。こんなにモテモテの周作なのに、彼はあろうことか直子とも新子とも結婚せずに、別の「木綿のような女」と結婚して一人娘までいる。そして、直子や新子の幸せを祈るとか言いながら、秋津温泉に通って、新子との関係をズルズルと引きずっているのだ。男性中心主義を批判する視点から読むと、もちろんいい加減なひどい男なのだ。
その批判はともかく、私にはいまいち周作がどうしたいのか分からない。私の想像力や読解力がないからかもしれない。なんで、周作は直子や新子のどちらかと結婚しなかったのか、ということが気になって仕方がない。舞台となる秋津温泉という場が、いかにも「桃源郷」ような空間である。周作は、数年おきに「桃源郷」にやってきて、女性たちのもてなしを受け、生きる力を得て山を降りていく。女性たちとの間に禁忌を設けるのは、周作の中で永遠に「桃源郷」を守り続けるためなのだろうか。

秋津温泉 (集英社文庫)

秋津温泉 (集英社文庫)

*1:話はズレるが、たしか村上春樹の『ノルウェイの森』も「直子」という名前だったのでは。日本文学では、「直子」は病弱な女性なのだろうか?