香具師的なるもの 

北田暁大『広告の誕生』岩波書店
これまで北田氏の論文をいくつか読んでいて、氏の用いる言葉で常々気になっていたものがある。それは《香具師的なるもの》という言葉だ。
もちろん「香具師」が分からない、ということではなくて、《香具師的なるもの》と言う言葉を使って何が言いたいのだろうということなのだけど。どうも私は飲み込みが悪いので、キーとなる言葉をすぐに理解できないのだ。
この本にも、やはりキーワードとして《香具師的なるもの》は登場している。もう一つ重要なキーワードとして《気散じ》というものがある。が、私は《香具師的なるもの》のほうが気になる。この言葉は、『広告の誕生』以外の論文に関しても理解する際に必要になるだろうと思うので。氏の思考の方法をよく表している。
本書の195ページにこう書かれてある。「《香具師的なるもの》――事物たちと身体が意味を媒介せずに戯れる世界(遊動空間)――」
これだけではいまいち分かりにくいので、広告の誕生を分析する際に広告が持ってしまった《香具師的なるもの》について論じた箇所を見てみる。
初期の日刊紙というのは、さまざまな文字のサイズによる抑揚のない、きわめて「凝集−均質化された」ものであったこと。しかし、そんな均質な紙面に現れたのが岸田吟香の売薬広告である。当時の紙面は五号活字に占められていたが、吟香の「精綺水」という薬の広告は、「精綺水」という文字だけが二号活字、つまり他の文字よりサイズが大きかった、というわけだ。つまり、岸田は広告への装飾をしたのだ、という。

それはまさしく、《香具師》が二次元の平面/紙面という、近代的な劇場において弁舌を奮っているかのようである。(p.64)

そもそも、《香具師》というのは、一定の共同体内に属する受け手に現前的に語りかけることによって、その場その場の遊動空間を生成していた(p.66)。
というところを読み、なるほど《香具師的なるもの》とはけっきょく均質な空間やある一つの方向へ強制するような制度に絡め取られないものなのだ、と思う。制度や意味を攪乱するものとして《香具師的なるもの》が取り出される。
秩序/混沌があるとするならば、混沌の側にあるような、制度側の人間からみたら「野蛮」としか見えないようなもの。それが《香具師的なるもの》というものだろう。思うに、北田氏は、他の論においてもこのような《香具師的なるもの》を発見して、それが排除されていく様子をしばしば記述していたのだなあと理解する。
ポストモダンが盛んに唱えられていた時期には、こんなふうな《香具師的なるもの》がもてはやされて、ある時には「前近代」と結びつけられて、思わず「江戸はすばらしい!」という、いわゆる「江戸幻想」なるものがあったことを思い出す。さすがに、北田氏は、前近代にユートピア的幻想を抱いていないので安心する。それから、この本は北田氏のエッセンスが詰まっているように感じた。
ああ、こんな本のように、面白い論文が書きたいものだ。