ホミ・K.バーバ『文化の場所』

◆ホミ・K.バーバ(本橋哲也/正木恒夫/外岡尚美/阪本留美訳)『文化の場所 ポストコロニアリズムの位相』法政大学出版局、2005年2月
バーバの文章は最悪だとか難解だとかいうことを、しばしば目にしていたので、どんなにひどい文章なのかが知りたくて読み始めた。たしかに、ポストコロニアリズムに関する理論を検討する本書は、ほんとうに難しい。かなりの知識を要求される。正真正銘の専門家向けの内容だった。
というわけで、私にようなにわか仕込みの知識では、とうてい本書の内容をつっこんで検討するまでに至らず。読み終えるのに、一週間も掛かったのに残念。
本書はいくつかキーワードがあって、そのキーワードを何度もくり返し使うのがバーバのスタイルなのだけど、そのなかでも特に重要なものとしては、「文化的差異」「時間」ではないだろうか。この二つをバーバはかなり重要視していると読んだ。
時間に関していえば、近代が均質な時間をもたらした(というか押しつける傾向がある)。アンダーソンの理論などを用いながら、近代の「時間」について論じている。時間は、誰しもにとって、同じものではないというのがバーバの考えで、時間が均質でないことを暴くのがポストコロニアルの実践ということになるのだろうか。おそらく、そんなことを論じていたかと思う(あまり読解に自信はない)。結論において、このことを熱く語っている。(本書は全体的に冷静に論じているのに、以下の引用部分だけが、妙に力がこもっていて興味深い。なので、長くなるが一段落まるごと引用しておきたい。)

 ポストコロニアルが近代を通過するとき、そこに生まれるのは例の反復の形態、すなわち投影的な過去である。ポストコロニアルな近代の時間差は前方に進み、進歩神話につながれ文化的論理の二分法(過去/現在、内/外)に整序された、あの従順な過去を消去する。ここで言う前方とは、目的に向かって前進することでも、永久にずれ続けることでもない。時間差は近代の単線的な進歩の時間を遅らせて、「演技全体の」「身振り」やテンポや「めりはり」をあらわにする。これを達成する唯一の方法は――ベンヤミンブレヒトの叙事演劇について語ったように――現実の生の流れをせき止め、驚きの逆流を起こして流れを停止させることである。近代の弁証法が停止されたときはじめて、近代の時間の営み(進歩しつつ未来へ向かう衝動)が上演され、「上演行為そのものが含むあらゆるもの」が姿を現す。この減速、ないしずらしは、「過去」を駆り立て、投影し、その「死んだ」象徴に現在の――経過の――記号がもつ循環する生を与え、日常性の活力を与える。これらの時間性がその空間的境界を重ね合わせつつ、偶然触れ合うまさにそのとき、「非連続な」現在の不確定な分節化によって、その周縁がずらされ、縫合される。時間のずれは過去の生成を、生きた過程として存続させる。私が近代のポストコロニアルな考古学において発掘しようとしてきた空間的時間のレベルと臨海点とが、時間のずれによって交渉されていることから、読者はそこには時間と歴史が「欠けている」と思われるかもしれない。どうかだまされないでほしい!(p.422)

ここには、けっこうバーバのエッセンスが詰まっていると感じた。この部分を手掛かりにすれば、バーバの思想を何とか理解できるのではないかと思う。そんなわけで、長々と引用してメモしておく。常々、このことを考えるために…。

文化の場所―ポストコロニアリズムの位相 (叢書・ウニベルシタス)

文化の場所―ポストコロニアリズムの位相 (叢書・ウニベルシタス)