小谷野敦『評論家入門』
◆小谷野敦『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に』平凡社新書、2004年11月
「評論」と「研究」のちがいの説明をはじめているように、要するに日本の「評論」と呼ばれる一つのジャンル(?)を批評した本だと思う。そのように私は読んだので、面白かったのはやはり柄谷行人の『日本近代文学の起源』を批評した箇所だ。ここでは、柄谷が「恋愛」という文学において重要なテーマを避けているとの指摘があり、それがどうしてなのか論じている。「柄谷には、近世日本の武士的精神を受け継いだようなところがあって、恋愛など男児の論ずべきものに非ず」(p.111)といったことがあるのではないかと。また、そうした柄谷の評論が受け入れられたのは、80年代に「フェミニズム恋愛論」がさかんになり、この状況を苦手だと感じた人々が「恋愛や女の香り」がしないこの評論に飛びついたのではないかということを「邪推」したくなると書いていて、なるほどそれはあり得るかもと思った。
というのも、私は「恋愛論」とかジェンダー論とか興味はかなりもっているが、それは逐一揚げ足取りのような批判をしたいがためで、はっきりいって苦手な研究テーマなのだ。そもそも、人と付き合うことが大嫌いなので、私にとっては「恋愛」というテーマはタブーなのだ。私が柄谷の評論に強い関心を持つのも、そうした個人的な事情もあるのかもしれない…。
あと「柄谷はときどき、他の人が読まないようなふしぎな本」(p.117)を持ち出すテクニックがあるという指摘が面白い。そういえば、たしかに「なんで、こんな本を読んでるんだ?」と思ったことがあるかも。これは、あくまで「評論」のテクニックであって、学術論文では使えないとのこと。気をつけよう。しかし、小谷野氏は「このとぼけたようなやり方は是非身につけてもらいたい」(p.117)と評論家志望に向けて述べている。
『日本近代文学の起源』をバイブル視してきたのは、日本近代文学の研究者より英文学者や比較文学者ではないか、と言い「どうせ本国人にはかなわない」とい「悲哀」の涙腺をくすぐったのではと書いている。そして、アカデミズムならロシア語ができない者がロシア文学を論じるのは難しいが、「評論」ならできると。だから「評論」の特権をいかして「外国文学」を論じたら良いのではないかと言う。そして「たとえば私はロシヤ語ができないが、翻訳を読んで、トルストイを論じてもいいのではないかと思っている」(p.130)と述べている箇所に興味を持った。というのも、ちょうどこの前の『比較文學研究』84号(2004年)*1で、特集されていたことと重なってくる問題なのではないかと思ったからだ。小谷野氏的には、学術論文は原文中心主義で、しかし評論では翻訳をつかって論じても良いということなのだろう。
とすると、私などはやっぱり外国語が苦手だから、評論を目指すべきなのか???
それから、学者・評論家なら寸暇を惜しんで読書をせよと述べている。そして「読む価値なし」の本をさっさと見極めることが重要だと。私はそれができないから、いつも無駄な時間を過ごしているのだな。気をつけよう。あと、結局は該博な知識がものをいうらしい。
この本には、小谷野氏が一冊目の本をだしてからの「苦節十年」の話が語られているのだけど、私のようなダメな院生からすると、この「十年」の期間もすごくうらやましいではないかと思った。教授らの推薦で本が書けたなんて…。私なんて一生推薦なんてされそうもないし。私にはまったく能力がないから。
そういうわけで、この本は私の「物書き」への幻想を粉々に打ち砕いてくれた。小谷野氏レベルの研究者でも執筆依頼などなかった!。それを踏まえれば、まして私のような頭の悪い文章をネットで垂れ流している人間のところに、まかりまちがっても執筆依頼など来ない。そういう幻想は捨て去るべきなのである。このことを知っただけでも、この本を読んで良かった。「評論家」への幻想を抱く私のような人にとって、とても有益な本だと思う。ただネットで日記を書いても「物書き」などにはなれませんよ、そういうことなのだ。
評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2004/11/01
- メディア: 新書
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*1:参照→id:merubook:20041104