やっぱり難しかったが

◆森本浩一『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』NHK出版
デイヴィドソンがいったい何を考えていたのかということが、けっこう分かりやすく書かれていたと思う。私には役に立つ。
この本によると、デイヴィドソンは「言語」というものを拒否しているという。

「言語」なる一つの秩序が客観的に存在し、一定の集団はそれおを共有している。この言語共同体に所属する人々は「同じ仕方」で自らの信念を言語で表現することができる。それゆえ、言語の違いはなにがしか信念の違いを反映するのであり、言語が異なる人々の信念を正確に理解することは不可能である。(p.56)

というような、「言語相対主義」の立場デイヴィドソンは採用しない。他者にアクセスする方法はただ一つ。それは、「解釈」を通じてである。

解釈を通じて、われわれは他者の言語表現と信念とを結びつけ、相手の信念が自分と似ているとか違うといった理解を持つでしょう。しかしこの結合が、同じ表現を使用するあらゆる場合に妥当する保証はどこにもありません。新たな解釈が必要となり、それまでにこしらえていた理論を修正・微調整するという試行錯誤が際限なく続きます。結局、われわれが目にするのは常に他者の言語の断片であり、その「全容」を眺望することなどありえないのです。そうだとすれば、自分と他者の「言語」が同じとか違うとか言うことにどんな意味があるでしょうか。(p.57)

うーん、これだけだと、なんだか良く分からない。デイヴィドソンの考えは、これこれこういうものだ、と説明するのは今の私には困難だ。というわけで、著者のあとがきを参照してみる。著者の森本氏は、デイヴィドソンを次のように理解したそうだ。

私が『碑銘』に驚いたのは、「意味」なるものの同一性をデリダと同じように否定しながら、他方でそのつどの解釈の存在意義をきわめて肯定的に描き出していることでした。決定不可能性にたじろぐ必要はない。ミニマルな論理的能力と寛容の原理をたずさえて他者に向き合い、身についたスキルを活用して解釈を試みる限り、そこそこの理解は成立する。共有された言語や意味に訴えなくても、何とかうまくやりこなせるようにわれわれは出来ている。他者の理解とはそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。すべては程度問題である。(p.123)

たしかに、こんな思想なら、少しは元気が出そうだ。「決定不可能性」に過剰に反応して、テクスト論を目の敵にする必要もないのか。「決定不可能性」があるとしても、私たちはなぜだかコミュニケーションをうまくやってきたし、現にやってきている。時々、失敗もあるけれど。この思想は、なかなか面白いのではないか。ちょっと、本格的に勉強してみたくなってきた。デイヴィドソンの哲学は、まだどれほどの力を持つものなのか、決着はついていなようだし。今のうちに勉強しておくと、将来陽の目をみることもあるかも…。