江藤淳『成熟と喪失』

江藤淳『成熟と喪失―"母"の崩壊―』講談社文芸文庫、1993年10月
この本が引用されるとしたら、たいてい小島信夫の『抱擁家族』の分析の箇所だ。その理由が再読してみてよく分かった。『抱擁家族』の分析がいちばん面白い。ほかにも、安岡章太郎『海辺の光景』とか吉行淳之介遠藤周作庄野潤三などが分析されるのだけど、なんていうか『抱擁家族』の分析の前では印象が薄い。逆に言えば、それだけ『抱擁家族』の分析の衝撃が強いということなのだが。
この評論を書かせた、という意味で、江藤淳アメリカ体験は非常に重要なことだったのだあとあらためて理解した。したがって、『アメリカと私』あたりは読んでおくべき本なのかもしれない。庄野潤三の『夕べの雲』を分析して、「治者」であることを論じているのだけど、このあたりが江藤淳アメリカ体験の反映なのだろうと思うわけで。次のような結論を読むと、江藤淳の必死な姿をつい想像してしまう。

しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかもしれない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、その前から実在は遠ざかり、「他者」と共有される沈黙の言葉の体系は崩壊しつくしているかも知れない。彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯えつづけなければならないのかも知れない。だが近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきりと見定めることができ、「個人」であることを余儀なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかも知れない。(p.250)

漱石の『明暗』は、こうした問題を扱ったものになるということだ。にしても、ここで江藤は「父であるかのように」と「かのように」という言葉を何度も用いていることは気になる。

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)