魅力的な「言葉」と、「運動」と

四方田犬彦『航海の前の読書』五柳書院
四方田犬彦『指が月をさすとき、愚者は指を見る』ポプラ社
蓮實重彦『スポーツ批評宣言』青土社
がんばって3冊読了。どれも面白い。
四方田氏の映画批評は、もちろん参考になるし、現に研究に用いたりするのだけど、私にとっては比較文学的な文学論もまた魅力の一つである。とくに、最近は日本の文学を東アジアのなかで位置づけようとする点に注目している。たとえば、中上健次についてはこんな感じ。

だが、同時の忘れてはならないのは、東アジアの物語に横たわっている、今ひとつの巨大な時間であり、そこではユートピア的情熱に促された複数の男たちが集まって、親旧の誓を交わし、武侠と術策に耽る。『水滸伝』から『八犬伝』にいたる長大な小説がそれに相当している。惜しくも未完に終ったが、『異族』はあきらかにこの系譜に属していた。(pp.224-225)

こうした視野の広さにいつも驚かされ、研究の刺激を受ける。
驚きといえば、『指が月をさすとき…』がこの驚きを主題にしたものだろう。これは、諺は好きではないという四方田氏が選んだアフォリズム、警句に短いコメントがついたものを集めた本。「あとがき」で、著者が警句を好む理由を次のように説明する。「警句は人を驚かせる。まるで、喉元に匕首でも突き付けるかのように、短い言葉で読む者を不意打ちにし、眠っている意識を目覚めさせる。」
なるほど、たしかにこの本に登場する警句たちにハッとさせられる。そして、その驚きが思考へと導く。たとえば、私の気を引いたのはブルース・リーの次の言葉。

寛容とは侮辱である

この考えが正しいと思うから、注目したのではない。「寛容」に対して私が持つイメージをひっくり返すというか、ただ単に他者を認め受け入れる、といったものだけが「寛容」なのかどうかをもう一度考え直すきっかけとなる言葉だった。
『スポーツ批評宣言』は、蓮實節が聞けて面白い。「あるいは運動の擁護」というタイトル通り、映画にしろスポーツにせよどちらも「運動」を捉えるものだ。スポーツについての批評やニュースに欠けているのが、この「運動」を捉えるという視線に他ならない。たとえば人びとが「運動」ではなく、「数字」に一喜一憂したり、記者が「いまの気持ちは?」としかインタビューできないということに現れている。

 「批評」に必要とされるのは、そこでいま目の前で起きていることを「運動」として捉える動体視力のようなものにほかなりません。起きつつあることを見るということは、それ自体、自分自身の「運動」神経とどう関わっているかを「運動」として体験するということです。(p.36)

蓮實批評とはまさしくこれだなあ、と思う。この本は、蓮實批評の入門として読めるかもしれない。