政治の道具としての「生命」

ときどき、松岡正剛の「松岡正剛の千夜千冊」を読んでいる。ちょっと前だけど、「950夜」で、私の好きな小説、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が取り上げられていた。最近、この小説をもう一度読みたいと思っていたところなので、良いタイミングだ。去年、がんばって『カラマーゾフの兄弟』の読んだけど、はっきりいって中身を理解出来ていなかった。でも、この松岡正剛の解釈でなんとなく『カラマーゾフの兄弟』の輪郭が掴めたような気がする。再読するときの参考になりそうだ。
この解説で、松岡正剛の解釈が取り上げていたのが「大審問官の問題」というもの。詳しくは、リンク先で確認してもらいたいのだけど、「大審問官の問題」をまとめたところを引用してみる。

「反逆」の章で、イヴァンはアリョーシャと話しているときに、世の中でおこなわれている数知れない幼児虐待の例をあげ、もし未来の永遠の調和のためにこの幼児たちの苦しみが必要だというのなら、自分はそんなに高価な犠牲を払って入場しなければならない未来社会の入場券など突っ返したいときっぱりと言う。
 幼い受難者のいわれなき血を必要としている神など、絶対に容認するわけにはいかないとも言ってのけるのだ。
 アリョーシャはこのイヴァンの背神的無神論に対して、「お兄さんの考えられることもわかりますが」と言って、仮にそのような問題があるにしても、それでも赦される唯一の存在というものがあって、それこそがキリストなのだと優しく反論する。

この問題、たしかに引っかかる箇所だ。この文章が気になっていたので、今日『聖書』を読みながら、キリストが犠牲になって世界の人が救われる、という話がそれで本当に良いのか、と疑問に感じた。たとえば、99人の命を救うために1人の命を犠牲にするというこが許されるのか。というか、ある1人の生を、他の生のために用いるということを認めても良いのか?ということが気になる。
少し具体的に考えてみる。たとえば、最近のテロに関するニュースについて、こんな指摘がある。
世界を動かすスペインの政変(田中宇の国際ニュース解説)

2001年の911事件を境に、世界中で「テロ」が政治の道具として使われるようになったことが感じられる。

「テロ」とか「戦争」をまさに政治活動のために使っているのが、アメリカというよりブッシュがまず思い浮かぶ。「テロ」や「戦争」はつねに「生命」と関わっている。「テロ」や「戦争」を政治の道具とするということは、「生命」を道具として使っているということに他ならない。それも1人の政治家のために、である。たぶん、こういうのが<生−権力>、<生−政治>と呼ぶものなんだろうなあと思う。
とすると、「テロ」や「戦争」は、権力に私たちの「生命」を勝手に使わせないために阻止しなければならないし、、まして1人の政治家ために使われることには断固反対しなくてはならない、と思う。
今のところ、ここまでしか考えていない。この先をどうすれば、また機会があったら、考えてみよう。