ルール

正直に言うと、中国生活は私に合わないなと思う今日この頃。別に中国が嫌いとか好きとか、そういう問題ではなくて(実際、現時点で私は中国が嫌いではない)、ただ肌が合いそうもないと直感的に思う。生活に慣れたら、この第一印象も修正されることになるかもしれないが。中国語は全く話せないし、理解できないし、中国についてもあまり関心がなかったので、中国に関する知識もそれほどない。おまけに、仕事もうまくいかないとなると、日々ストレスがたまっていく。もしかすると、いわゆる五月病というやつかもしれない。少々鬱気味。――
そんな自分と中国の関係を見つめ直してみて思ったのは、いかに日本では自分がルールに守られてきたのかということだ。ルールはなんでもいい。たとえば、電車に乗るときは、降りる人が優先で、乗る人はあとからとか。そのような日常生活のルールだ。こうした些細なルールでも、それを守って生きていけば、けっこう楽に生きられる。ルールというものは、ある意味ルーチンワークのようなもので、その場その場で自分で何をするか行動するかを考える力を奪っているのかもしれない。
中国での生活は、当然だが日本のルールとは違うルールが存在している。来たばかりの私には、中国人の行動はルール無用に見える。もしかすると、中国なりの生活のルールがあるのかもしれないが、まだ私は理解できていないし、性格的に保守的なので、日本のルールから中国のルールに慣れることなど、この先ないかもしれない。ルールが変わってしまうと、いちいち自分で考えて行動しなくてはならない。それが面倒と言えば面倒だ。私の感じているストレスの一つでもある。
中国に来て、解放感を味わっている人がいる。おそらく、こういう人たちは、私とは性格が反対で、ルールに従うのが苦痛と感じる人なのだろう。私はどちらかと言うと、ルールに従っているほうが楽だと感じる。赤信号で止まる、青信号で進む、このルールに従って生活するほうが楽だから。しかし、中国のように、赤だろうが青だろうが、信号そのものがあまり守られていないところで生活していると、その場でいちいち、いつ道路を横断しようかとか、横断中でも車に気をつけないととか考えなくてはならない。これは、単なる慣れの問題だと思われるかもしれないが。
私は、以前から「自由」を追求する思想とか活動に疑問を感じてきた。「自由」なんて、それほどいいものなのかと批判してきたが、その理由は、実は私が自分で自由に考えることを面倒だと感じていたからかもしれない。たしかに、私は以前から他者に依存しすぎているという批判を受けてきたが、異国での生活でその欠点が自分を苦しめているのだろう。